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翌日。
エクトールは仕事が休みで俺をジローナまで車で送ってくれたのですが。
いつも通り危ない運転で、
バルセロナを出るときにはガソリンメーターに赤ランプが点いていたのはもう言うまでもありません。
その赤ランプのまぶしいことまぶしいこと(笑)
しかも、道中はいつものように熟睡寸前の居眠り運転です。
いや、
あれは確実に熟睡です。
ですが、今回も幸運に何事も無くジローナに着きます。
ホントにヒヤヒヤしますよ。
すると、彼は別れ際に
「たまにこっちに顔出すからさ!」
と、なぜか寂しそうな顔をしています。
恋人同士じゃないし頼むからそういうのはやめてくれ(笑)
「うん、またバルセロナに行くし、新しい店の話が分かったら教えてよ!」
そう言って彼と別れました。
その日はそれから、同居人のジャウマにジローナの市内を案内してもらい、バルへ寄って彼とお茶をしながら同居人の話を聞いたりしていました。
「しかし本当に、知り合いの「し」の字もいない所に来ちゃったなぁ・・・」
初めて来た町を眺めながら、しみじみと実感していました。
いくらアグラエの弟を間接的に知っているとはいえ、彼には一度しか会った事はないし、この町には日本人なんて全く居そうにありません。
さらにここは、当然ながら日本語が話せる環境ではありませんでした。
もちろん、こういう環境の方が俺は大好きですね。
自分を追い込むの、結構好きです(笑)
さて。
相変わらず町を歩いていれば、周りの視線が気になります。
別にどうでもいい話ですし、そういうものは気にしない方ですが、
そんな俺でも気になるくらいの視線でしたからね。
「こんなところで東洋人が何をしてるの?」
という顔をしている視線というのが分かるので、余計に気になるんですよ。
バルセロナと比べると、ここは外国人労働者の割合も相当少ないです。
なんとこの町にはほとんど外国人がいません。居るとすれば、モロッコ人ぐらい。
正直、ここまで区別されるような目で見られると、
いくら俺が前向きな性格でも、へこみます。
とにかく、今までに無かった感覚です。
翌々日から、ジョアン・ピケのレストラン「Cal Ros(カル ロス)」へ行きます。
通常、学生ビザを持っていれば、当時はアルバイト的な感じで1日4時間ほど働けたと記憶していますが、
俺はそんなことも気にせず朝から晩までずっと厨房の中ですよ(笑)
さてさて。
俺は更衣室に案内され、自前の安いコックコートに着替えます。
更衣室といっても、古い建物の二階部分が「着替える場所」になっていて、そこで着替えます。
ちなみにこのビルは相当古いらしく、上には住人が一人も居なく、
というか住めないくらいに古い建物で、今にも壊れそうな、そんな建物です。
あまりにも危険なので、「ここから上の階には行くな」と言われていました。
階段には手すりすら付いていません。
まったくどんだけオンボロなんだよこの建物(笑)
俺は着替えを済ませ、誰一人として知り合いが居ない厨房に入ります。
すると、
かなり細長いこのレストランの厨房の中には、ここでシェフを任されているチャビを初め、十人ぐらいのコックが忙しそうに仕込みをしていました。
包丁をシャープナーで砥ぐ音
まな板の上で野菜を切る音
フライパンの上で肉が焼ける音
皿と皿が当たって出る音
大きな冷蔵庫の扉が閉まる音
蛇口から水が出る音
洗浄機の音
とにかく、何もかも全てが新鮮に聞こえました。
「すげぇ! いつかこんな環境で働いてみたかったんだよ!!!」
今までずっと夢に見てきた光景が、俺のすぐ目の前に。
なんだか大げさかもしれませんが、今までずっと「こんな環境で働いてみたい!」と夢見た俺にとっては、あまりにも新鮮でこの上ない環境でした。
本当に「ドンピシャリ」とはこのことで、
あの日の興奮は今でもはっきりと覚えています。
あの新鮮さといったら、一生忘れられません!
9月に入ってから、ジョアン・ピケからエクトールに電話がかかってきました。
するとエクトールは、
「テツ、なんだかバルセロナの店のオープンが遅れてるんだってさ。
そこでジョアンがね、別のレストランをジローナに持ってるんだけど、
『良かったらテツはそれまでの間、そのお店でしばらく働かないか?』だって」
「なぜもう一つのレストランか?」というと、
前にエクトールと行ったレストラン「Cal Rei(カル レイ)」は、4月から10月までの半年だけ営業している、言わば「リゾート地のレストラン」なので、もう今年の営業は終わってしまうので、もう一つのレストランへと打診があったのです。
早速、俺からジョアン・ピケのところに電話を入れて自分で確認をしてみます。
「エクトールから聞いたか? バルセロナの店は年末にオープンすると思うから、それまでジローナのレストランにおいでよ。給料は、最低賃金だけど払うから」
「そうですね、ちょっと考えてすぐ返事します」
『ジローナのレストラン』とは、
前回ご馳走になった店、ヌエバ・コシーナタイプの「カル レイ」ではなく、別にもう一軒ジローナの街の中にジョアンが持っている、カタルーニャ地方の郷土料理を出しているお店でした。
「テツ、どうだ? お金もらえるんだろ? 今行ってる店より良いと思うよ?
カタルーニャ料理の店だし、この店では日本料理なんてやる必要もないだろ?」
と、エクトールは俺にジョアンのお店で働くことをしきりに勧めます。
「そうだよね。でも、俺、あっちに住むところもないよ?」
「それじゃ、ちょっと周りに聞いてみるよ!」
そんなのすぐに見つかるわけないよと思っていましたが、
数日後エクトールから、
「テツ、部屋が見つかったよ!アグラエの弟がジローナに住んでて、そこでも一部屋空いてるんだって。お前、ツイてるなぁ!!」
「え、ホント?」
日本語を勉強している「フォルケー」の奥さんの弟が、ジローナに住んでいたのです。
信じられないような話ですが、ホントでした。
自分でも信じられませんでしたからね。
そんなにタイミングの良い話なんてあるのかいな?と思っていたくらいですから。
全ての道が一本につながっているような、そんな感じがしました。
そしてその次の週末、いつもどおりに「サジョリダ」へ行きます。
皆と世間話をしているうちに、自然と俺の口からこの間の話を始めていました。
「実は先週、ジョアン・ピケの店に行ってきたんだ。それで、今度バルセロナで新しく、彼がオープンするレストランの話を聞いて、そこに働きに来ないか?って言われたんだよ」
「え!? それでテツはどうするの?」
「うん、いろいろ考えたんだけど、やっぱりこのままだとここでは長くは続けられそうにないかなって。あっちでは労働許可も取ってくれるっていうから、ジョアン・ピケの店に行こうと思うよ」
「待ってよ!それなら俺だって給料も払うし労働許可だって取ってあげるから!!」
実際、それは無理だろうと思いました。
町場の小さなレストランが大きなレストランに勝てるわけがないですし。
それに今までだって、彼らからお給料をもらっていたわけでもないし、
店がすごく忙しかったわけでもありません。
サジョリダは勉強するにはもってこいの環境ですが、
これから先のことを考えると、ジョアンのレストランへ行ったほうが良いと考えたのです。
どっちがいいと聞かれれば、やはりちゃんと労働許可を取って、安心して働けるほうがいいに決まっていますし、その後に「アルサーク」にも行きたいと思っていたからです。
『不法滞在で強制送還』なんて、笑い話くらいにしかなりませんから(笑)
マリア・カルメンにも事情を説明して、二人に納得してもらいました。
「それでテツ、いつから行くの?」
「できれば、行ける準備が出来次第すぐにでも行くよ。でも、ここもちゃんと終わらせたいし、急には辞めないよ」
そして、9月いっぱいで、「サジョリダ」を出ることになりました。
早速ジョアンにも電話をして、10月からお世話になることになりました。
さて。
ジローナにアグラエの弟が住んでいても、当然俺は彼のことを知りません。
やはり一度彼らにも会っておいた方が良いと思い、時間を作って一人でジローナまで行ってみました。
住所も教えてもらっていましたが、やはり初めての場所。
予想通り思いっきり迷ってます(笑)
迷った挙句にどうしようもなくなって、
アグラエの弟ジョルディに直接電話をかけ、迎えに来てもらいます。
最初から電話しとけって?(笑)
しばらくすると向こうから、誰かが歩きながら俺に向かって手を振っています。
うちらの距離は百メートルくらい離れていたにもかかわらず、俺に今まで会ったこともなかったのに、ジョルディは俺に向かって笑顔で手を振っていました。
後で彼から聞いた話ですが、
「よくあの距離で俺だとすぐに判ったね?」と聞いてみたら、
「あの町で中国人なんてそんなにいないから、すぐに判るよ!」
なんて、冗談交じりに笑いながら言っていました。
俺がそれ言われるの嫌いだって事くらい知ってるくせに(笑)
そしてジョルディにマンションまで案内してもらい、
同居人のマルクとジャウマ、
「それじゃぁ、来月からよろしく!」
軽めに話を済ませ、バルセロナまで戻りました。
長い夏休みも終わり、学校は新学期を迎えました。
俺は今回の試験にも合格して進級して4級に上がることができましたが、
ジローナに行くことが決まっていたので学校を中退することになりました。
ジローナに行く前日、今まで一緒に勉強してきたクラスメートや日本語を勉強している友達を部屋に呼んで、軽い日本食でもてなしたお別れパーティーです。
「招待=お金かからない」ということもあり、
気がついたら4LDKのマンションは30名くらいの人であふれかえっていました。
知らない間に、気がついたら結構な数の友達ができていたんですね。
嬉しい限りです。
実は、
この『お別れパーティー』にもタイスが来てくれたのですが、
なんと、ここでも俺は告白できずじまい。
明日からジローナだっていうのに、全く男らしくありませんね。
というワケで
俺は胸に詰まった物が取れないまま
ジローナへ向かうことになったとさ(笑)
★★★つづく★★★
「は?」
俺の頭の中にはもうその言葉しかありませんよ(笑)
それ以外は、全部真っ白です。
でも、頭の中を真っ白にしているだけでも何も進みませんので、
自分が伝えたいことは伝えてみます。
「でも、僕は日本料理をやりにスペインに来たのではなく、スペイン料理を勉強しにバルセロナまで来たんです」
すると、
「それは分かってるよ。君に助手を付けて日本料理を彼らに教えてくれれば、君はこっちの料理も勉強できるし仕事もできる。労働許可だって取れるよ?」
と、ジョアン。
「はぁ…」
正直、あまり乗り気ではありません
というか全然行く気になれません。
ケイゴさんの店でも、多少なりとも日本料理をやっていました。
でも、『日本料理』といってスペイン人が連想するものは
『Sushi、Sashimi、Tempura』。
「日本人は毎日これらだけを食べている」と当時は思われていましたから(笑)
そういうのは俺が今まで日本で『プロ』としてやったことのないジャンルであっても、
スペイン人からしてみれば、「日本人なんだからなんでも作れるだろ?」です。
確かに俺は日本人ですが、
家で作るだけならまだしも、それをお客さんに出すなんてとても恥ずかしい話です。
「まぁ、今からゆっくり考えてよ」と、ジョアン・ピケは話を締めくくりました。
ゆっくり考えてよと言われても、全然気分が乗りませんから。
そして、帰りの車中でエクトールとこの話の続きをし延々とます。
1年後に行くであろう「アルサーク」や、今勉強してる「サジョリダ」の話も交えて。
するとエクトールは、
「それなら、アルサークに行くまでジョアン・ピケのところで俺と一緒に働いて、お金を貯めればいいじゃないか!」
「確かにそうだけど、やっぱり『日本料理』ってなぁ・・・」
「ジョアン・ピケも『助手を付ける』って言ってただろ?
そんなに深く考えるなよ、なんとかなるからさ!」
あ、出た。
―なんとかなる―
まぁ、実際にそう言われ、今まで『何とかならなかった』ことはありませんでしたが、ここでそれを言われても、どうしてもためらってしまいますよね。
「サジョリダ」で働いていましたが、お給料はもらっていませんでした。
ジョアン・ピケと一緒に働けば、お給料がもらえます。
しかし、
一番魅力的なのは、『労働許可がもらえる』というところです。
「アルサーク」へ行くにも、労働許可証を持っていれば、
きっとなんの不安もなく、のびのびと勉強できる環境になることでしょう。
『どっちがいい?』と聞かれたら、もちろん労働許可をもらえた方がいいに決まっていますが、
「日本料理を作る」というところだけ、俺の中ですごく引っかかっていたのです。
だって俺、スペインにスペイン料理を勉強しに来たんですよ?
それがまたなんで、
プロの板前さんでもないのに日本料理を作んなきゃなんないの!?
★★★つづく★★★
夏の暑い日も過ぎてもうすぐ9月になろうとしていた頃、エクトールと予定を合わせてジョアン・ピケのレストランに行くことになりました。
道中、エクトールの運転がおっかないことおっかないこと。
走行車線を走らないで、なんと走行車線を二つまたいで走ります。
指摘しないと、ずっとそのままで運転してます(笑)
しかも、シートベルトも締めず。
「体が太くて締められないからベルトはしない」と、彼は言います。
しばらくすると、彼は運転中に居眠りを始めます。
いびきも相当なくらいかくのですが、
『夜に寝ているときにたまに呼吸も止まっちゃうみたいなんだ。だから昼間、急に眠くなるんだよ』
と彼は続けます。
「え!」
そうです。
「睡眠時無呼吸症候群」です。
でも、ベルトは締めようよ(笑)
でも、それで運転中に彼に眠られたら、こっちもたまりません。
俺は彼を起こすのに必死です。
「エクトール、寝るなよ!」
「・・・大丈夫、寝てないから」
「って、目、閉じてない?」
そんな会話が延々と一時間半くらい続きます。
そんなやりとりをしながら、バルセロナから高速に乗って、ジローナ方面に向かいます。
エクトールの運転は車線をまたいで運転するくらいで、そんなにスピードは出していませんでしたが、他の車はだいたい140km/hで走っています。
中には追い越し車線で160km/h以上は出ているであろう車が、うちらの横を通り過ぎて行きます。
スペインの高速道路は直線が多く、「走りやすい」といえば走りやすいのでしょうが、
一応、高速の制限速度は120km/hなので、正直おっかないです。
――ドライブ中に、山に囲まれた道や、のどかな田園風景を眺める――
なんて余裕は彼のおかげでほとんどありません。
しかもなんと、
高速を走っている中、ガソリンメーターの赤ランプが点灯。
するとエクトールは、
「俺さ、このランプが点くまでガソリンを入れに行かないんだよ。だからこうやって、ランプが点いてから、ここのメーターをゼロにしてさ。そうすればメーターがあるキロ数まで届く前にスタンドに入れば、大丈夫だろ?」
そんなこと自慢しないで先にガソリン入れとけ(笑)
彼はそう言いながら、走行距離のメーターを指差しながら俺に教えますが、
そんなこと、胸を張って言うことではありません。
ここでガス欠になっても、俺は絶対に車を押すつもりは全くありません。
その前に、もしスタンドが見つからなければ彼は一体どうするのでしょうか!?
それを考えると「呆れる」を通り越して「もうどうでもいいや」になってきます。
怒っても俺が疲れるだけです。
まったくいい加減というか、なんと言うか。
しかし、これでも「なんとかなってしまう」のですから、これがこいつの性格なのか、スペイン人の国民性なのかよく分かりませんでしたが、まぁ面白い奴もいるもんだなとすごく感心していましたよ。
同時に、寿命が縮むような思いもしていましたが(笑)
そんなこんなで、「カスティージョ デ アロ」に到着します。
予定の時間より少し早く着いたので、時間合わせのためにレストランの近くにあるバルでコーヒーを飲んで休憩です。
そして、一時を過ぎた頃にレストランに到着しました。
そのレストランは昔のままの建物を使っているお店で、王様のいるお城のような石で出来た大きな家、というか「お屋敷」です。
外から見るだけでも中は相当広そうでした。
「すごいなぁ、こんな建物がレストランかよ!」
と、俺は店に入る前から圧倒されっぱなし。
車から降りて、エクトールの後ろを歩いて店に入ると、
ジョアンの奥さん、クリスティーナが仕事中にもかかわらず、奥のパントリーでお客さんに見えないようにタバコを吸っていました(笑)
うちらを見かけるとタバコを消して店の入り口まで歩いてきて、
「どうも、初めまして!」と、笑顔で迎えてくれます。
続けてエクトールが、彼女に俺のことを紹介してくれます。
「彼が、テツです」
「どうも、初めまして」
軽い握手を交わして、席まで案内されます。
しばらくすると、厨房からシェフのジョアン・ピケがやってきた。
「どうも、初めまして、テチュ、でいいんだっけ?」
そうです。
俺は『テツ』と呼ばれず、最初は『テチュ』と呼ばれていました。
「tsu(ツ)」という発音がスペインにはなく、明らかに発音に苦労しているというか、どう発音していいのか分からないようです。
でも、スペイン人でもこの発音を読める人はちゃんと読めるのですが、
スペイン語で巻き舌を使う「rr」という発音も、日本人にしてみれば発音できる人とできない人がいるので、きっとそんな感覚なのでしょう。
ですが、この「rr」を発音できないと、スペインではどこに行ってもバカにされるのです。
「テツです!」
そう笑顔で返すと、エクトールを何かを話して、シェフは再び厨房へと戻っていきました。
「これからうちらに食事を出してくれるみたいだよ?」
なぜかエクトールも少々緊張していたようです。
それから、エクトールと二人で小声で話しながらシェフのコース料理をご馳走になりました。
「へぇ~・・・」
今まで食べたことがない、奇妙な料理が次から次へと出てきます。
もちろん、美味しいです。
このレストランでは、いわゆる「ヌエバ・コシーナ(ヌーベル・キュイジーヌ)」をやっていて、カタルーニャの郷土料理に創作を混ぜた料理を出していたので、そういう料理はバスク地方の三ツ星レストラン、アルサーク以来でした。
しばらくすると再びジョアン・ピケが厨房から出てきて、うちら二人はシェフのデスクに案内されます。
席に着くやいなや、彼は大きな設計図を広げ出して、こう続けました。
「今年中に、バルセロナでこういうレストランをやるんだけど、その店でちょっとした日本料理を出したいんだよ。今、バルセロナでは日本料理がブームになってきていて、そういう料理も加えたいんだよ。良かったら働きに来ないか?」
「は?」
★★★つづく★★★
そんなことをしているうちに、9月に入る前にジャン・ポールからも連絡があり、8月中から彼の店へ勉強に行くことになりました。
バルセロナから電車に乗って40分弱。
カルデデウの一つ前の駅、グラノジェールスで降ります。
同じ電車に今までずっと乗っていたので、別に変な違和感もありませんでしたが、
なぜか、
町の中にある、何かおかしな『違和感』を感じました。
実はカルデデウでも、同じ『違和感』はあったのです。
この町には人こそ多いのですが、外国人はほとんど住んでいない町です。
スペインでも、ここカタルーニャは独立心旺盛というか、
「俺たちはスペイン人じゃない!」と堂々と言う、とても愛“州”心を持った人がほとんどです。
「カタルーニャはスペイン語と違う言語を持っている」
「俺たちはアラブから来たのではない」などなど、
話し始めたらいつまでも止まらないくらいのナショナリズムを持っている人種です。
バルセロナの町の中心街はいろんな国の人でいっぱいですが、この町みたいにちょっと都会を離れたところにある町や村はこういった、外国人をなかなか受け入れられない人が多いのです。
そんな街に、東洋人が一人でのこのこと歩いていたら、その東洋人は格好の笑いの種になるワケです。
そこでまず、俺がよく呼ばれた代表的な表現は、
「中国人」でした。
はい。
外国に留学されていたり、住んでいる方は十分ご存知でしょう。
確かにスペインは東洋からかなり離れた場所にあるし、当然そんな遠いところの国のことを身近に聞けるわけでもないし、あまり関心も持っていないかもしれません。
それに、スペイン国内にある中国料理レストランの多いこと多いこと。
しかもまた、どこでも同じ料理しか置いてなくて、
とてもじゃありませんが、
料理も味も地元の「横浜中華街」とは比べ物になりません(笑)
ですが、逆に考えてみると、
僕たち日本人から西洋人を見ても、
最初は当然区別すらできないでしょうし、どこの国の人でも同じように見えるはずです。
俺も、小さい頃に住んでいたところの近くに米軍ハウスがあって、そこで見る外国人全てがアメリカ人だと思っていたくらいだから。
まぁ
実際のところあそこに居た人たちは全員アメリカ人でしたが(笑)
それ以来、外国人を見れば全てアメリカ人と思っていたくらいで、それもまた『からかい』の標的でしたね。
アメリカ人をからかっては怒らせて、走り回って逃げていた子供の頃を思い出します。
というワケで、
日本人からしてみればスペイン人なのかフランス人なのかなんて見分けることなんかできないのが当然ですから、彼らから見てもきっと同じ感覚なのかもしれません。
それでスペイン人の一部の人は、東洋人をまとめて一つにひっくるめて
「中国人」とか「黄色」と呼ぶのでしょう。
ですが、
どの国にも国民一人ひとりに「アイデンテティ」というものがあって、それはもちろんスペインにもあれば中国にもあるでしょうし、日本にだってあります。
とにかく俺は、スペイン人からそれをまとめて全て一つにされることが嫌でした。
こんなこと、日本にいたときは一度も考えた事がありませんでした。
ですが、考えてみれば今スペインにいる俺も立派な「一外国人」なんですよね。
だけど、この仕打ちはひどすぎます。
確かに
「気にしなければいい」
で済む問題ならそれでいいのですが、
大半の、スペインに留学や働いていたことがある人ならご存知かと思います。
とにかく癪に障るんですよね(笑)
何処を歩いていても視線を感じます。
軽く病んでしまいそうなくらいにその『視線』が気になりました。
視線だけならともかく、小学生の子供にまでからかわれます。
そうやって毎日を過ごしていると、
次第に自分の母国が大好きになっていきます(笑)
現在の日本の教育はどうなのかわかりませんが、
俺が子供のころにはそういう「人種的な話」を聞いた覚えがありませんが、
「チビクロサンボ」でしたっけ? なんかありましたよね。
それ以外覚えていません
というか俺が勉強しなかっただけかな(笑)
対照的に、スペインでは子供の頃からそういう教育がされるようで、
人種も「白、黒、黄色、茶色」と「色」で教えられたりすると聞いたことがあります。
確かに、愛国心を養う教育をすることは重要だと思いますが、差別をする教育はいかがなものです。
でも、逆に考えてみれば俺だって日本を出て違う国を見ることができたおかげで、自分の中になかったものを見つけることができましたし、自分の国のすばらしさにも気が付くことができました。
こんな時でもとりあえず前向きです(笑)
確かにスペインもすごい国だと思います。
大航海時代の侵略によって、今では中南米のほとんどの国でスペイン語が公用語になっています。
きっとそのときの名残なのでしょうか、当時のスペイン人の感情を今のスペイン人は引き継いでいるような気がしてなりませんでした。
スペイン国内では、スペイン語のほかに言語が三つ(カタラン語、バスク語、ガリシア語)あり、カタラン語の中でも、同じ言葉を使っているのにバレンシア地方とは多少表現の仕方が違うと言いますが、
こんなこと言うと友達に怒られますが、
俺からしてみると『それ言ってたらキリないよ!』という感じです(笑)
そんなこんなで町中の『視線』を我慢しながら町を歩き、
ジャン・ポールのいるレストランに着きます。
平日はあまり忙しくなく週末が忙しくなると聞いていたので、
『平日は学校へ行き、金曜の朝にお店へ行き、金曜の夜は彼らの家に泊まらせてもらって、そのまま土曜日働いて、土曜の夜のうちにバルセロナへ帰る』
という生活を始めました。
この店は、ジャン・ポールはフランス人なので、スペイン料理とフランス料理をミックスさせたような料理を出していました。
もちろん、彼の腕は聞くまでもなくすごかったです。
奥さんのマリア・カルメンの作るデザートも、とにかく美味しいものばかりでした。
たくさんの料理やデザートを教えてもらっては、レシピをメモに取る日が続きます。
お店に行く日はとても刺激的で、毎日が勉強でした。
時には彼らが俺に
「テツ、今度何か、日本料理作ってよ!」なんてお願いをされて、
唐揚げや手巻き寿司、煮物など、スペインで売っている食材をかき集めてできる料理を作って、それをまかない料理にして食べます。
このお店でも給料はもらえませんでしたが、
とにかく毎日が充実して、すごく楽しかった。
「現地の人と働く楽しさ」を覚え始めた頃です。
あ、
『視線』にも違和感を覚え始めた頃でした(笑)