[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
今年もあっという間に一年が過ぎていき、もうクリスマスの時期がやってきました。
スペインに来てから、一番早く感じた一年でしたね。
さて。
ルックラでは、『年越しコースメニューの料理』と『12粒のブドウ』に、
『生演奏で朝までレストランで踊りましょう』というオプションが付いたスペシャルプランを用意していました。
食事をした後、お客さんが年越しの12粒のブドウを食べ終わってから、夜の0時以降に店内がクラブに早変わりして営業を続け、お客さんは飲みながら朝まで踊り明かします。
日本でもやってみたいですねこれ(笑)
しかも、レストランの年越しメニューの相場は、10,000ペセタから20,000ペセタなのに、
なんとこの店は30,000ペセタもいただくというんです。
まぁ、オプションの『朝まで生演奏』もついていましたけど、
あ、それと
朝食の『目玉焼き』も付いてましたね(笑)
「そんなに高い値段で、ホントにお客さん入んのかなぁ?」
と、誰もがそう思っていましたが、
予想とは裏腹に、12月の頭から受付を始めると、
定員の80名が、
1週間もしないうちに予約であっという間に埋まりました。
「うそぉ!?」
「ありえないねぇ。こんなに高いお金を払ってまで!?」
今思えば、
この頃のスペインはバブルの絶頂期だったのでしょうね。
一昔前に日本で経験したようなことが、こちらスペインでも起こっていました。
大抵のスペイン人は、クリスマスから年末の時期は家族と過ごしたり、親しい友人達とホームパーティーをしますが、中には、年末をこのようにレストランで豪華に過ごす人も結構多いです。
そして12月、こちらも『忘年会シーズン』に突入し、
毎日毎晩、厨房はいつもよりさらに忙しい毎日を送っていました。
10名、20名、30名の団体さんは毎晩のように当たり前。
だって、
250席あるレストランでしたからね(笑)
中には、
当日の朝、宴会予約のお姉ちゃんが
その日の晩の団体さんのメニューを突然持ってきたり。
それがまた、一度だけではなく、何度も何度も
「またかよ!!」という感じで。
しかも、『20名』とか『30名』の団体さんですよ。
ありえません(笑)
あのお店、
今思い出してもホントに狂ってました(笑)
でも、もちろんやりますよ。
20名だろうが30名だろうが40名の団体さんだろうが、
その日のうちにスタンバイして料理出しましたよ。
皆、プロですから。
というより皆、
『できません』って言えませんでした(笑)
そんな感じで31日の昼までは通常営業をしていましたが、
夜から「特別コースメニュー」のみの営業になると、調理場は決まった料理をお客さんが食べる流れで順番に出していくだけなので、いつもよりは忙しくならないので店の半分くらいのコックは先に帰って自宅でゆっくり休んで年を越すことになりました。
いわゆる『早上がり』です。
残った「料理出しメンバー」は、
偶然にもほとんどこのお店の「オープニングスタッフ」だけでした。
もちろん、予定なんてありませんでしたから俺も残って料理番です(笑)
『残業手当』なんて出ませんでしたが、
そんなもの別に要りませんでしたし、むしろ楽しかったです。
しかし不思議です。
こうして「オープニングスタッフ」だけで働くのは、実にオープン以来。
途中から、ものすごい数の人がお店に働きに来ては辞めていきましたから(笑)
もちろん、最初から一緒に働いているメンバーだけあって、
後から入ったスタッフより気兼ねなくスムーズに仕事が出来ました。
皆がどうやって動くかなんて、半年も一緒に働いていると体が慣れるし、お互いに相手の動きが分かっているので、正直言って楽です。
『年末』ということもあり、気分も良く浮かれていたせいもあって、
俺は仕事の途中からシェフに
「あの、お願いがあるんですけど…」
「ん? なんだ?」
「今日は仕事しながらお酒飲んでもいいですか?」
どんだけ浮かれてるんだこの日本人(笑)
「ホールのスタッフに見られるなよ」とシェフからなんとかOKをもらい、
自分のセクションの魚料理を一卓分出す毎に、料理用に使っていたハウスの白ワインをグラスに注いで、俺の隣で肉料理を出していたスペイン人コック、パチョと一杯ずつ飲み始めました。
すると、次第に俺の顔も赤くなっていき、
「おいおい、テツ、お前相当酔ってるだろ?」
遠くで皆が俺のことを指差して笑っています。
もちろん、酔ってなんかいません。
飲むと顔がすぐ赤くなるのでどうしてもそう思われがちですが、酔っていたのではありません。
空腹だっただけです(笑)
初めてスペインに来てから今までのことを振り返りながら、一杯一杯グラスに注いだワインを飲み干しました。
とにかく、今までだけでいろんなことがありました。
当然、今すぐ日本に帰るつもりなんて全くなく、
これから先どうなるのか、正直不安もあったけどそれ以上にすごく楽しみでした。
年越しに食べるブドウだって、今回はちゃんと皮を剥いて種も取って、
12粒をお皿に乗せ、上からラップをかけて冷蔵庫で冷やしておきました。
準備万端です。
12時になって、厨房とホールのスタッフ皆でブドウを食べました。
そして、乾杯。
明らかに客席に聞こえてるくらいにでかい声出して騒いじゃってました。
無事に年も明け、それまで魚場にいた俺は順番に温前菜、米、肉料理と、一通りのセクションを回り、またそのセクションを任せてもらえ、色々な料理を学ばせてもらえました。
行くことができなかったのは残念でしたが、
ある意味、『あの有名な店』へ行くことを断って良かったと思っていました。
そうでもないと、今頃いろんな意味で悩んでいたのかもしれません。
もちろん、当時全く悩んでいなかったわけではなく、
この頃は俺にとって、スペインに来てから一番忙しくてたくさん悩んだり苦しんだりしていた時期でしたが、
それ以上に、
公私共に今までで一番楽しくて充実していた時期でもありました。
今でもこのお店にいたときの思い出話を始めたら、きっと朝まで話しても終わらないに違いありません。
今でもほとんど鮮明に覚えています。
そんだけ忙しい店だったら絶対に忘れらんないって!(笑)
★★★つづく★★★
スペインの飲食店では、チップを『払う』というか『置いていく』習慣があります。
スペイン語で「Bote(ボテ)」や「Propina(プロピナ)」と言います。
レストランへ食事に行ったりすると、お会計を払った後のおつりの小銭をそのままチップとして置いて帰ったり、食事の金額の一割くらいや、たまに「ドン」と結構な額を置いて帰っていくご機嫌なお客さんもいました。
スペインは日本のお金より小銭の種類が多く、
『おつりを小銭でもらっていると財布がパンパンになってしまうのが嫌だから』
チップとして置いて行くのか
もしくは、そのお店に対しての気持ち良く食事できたことに対してのお礼の意味も込めてチップを置いていくのか
日本で言う
『あ、おつりは結構です』が、スペインでは当たり前のような習慣です。
今考えると、当時のスペインはある意味『バブル期』だったのでしょうか。
それはさておき、チップです。
お客さんからいただいた一週間分のチップは、
翌週になると全てまとめられて、従業員一人ひとりに均等に分けられます。
端数は翌週に持ち越しです。
ルックラでは、昼夜合わせて一日当たり約400名ものお客さんが入っていたので、そのお客さん一人ひとりが少しでもチップを置いていってくれると、
次第には「チリも積もれば山となる」の法則で、一週間で相当な額に膨れ上がります。
当時、安月給な上に高い家賃と水道光熱費や生活費を支払って残る額は本当に微々たるもので、
この毎週いただける「副収入」が、うちらにとって生活の糧だったと言っても過言ではありません。
そこで、エクトールと俺が思いついたことは、
その「副収入」を増やすことでした(笑)
毎週もらえる額はまちまちでしたが、大体5,000ペセタから7,000ペセタ。
日本円で約五千円前後といったところです。
そのチップが、当時のルックラの従業員全員、
約40名に配られるのですから、相当な額です。
その「なけなしのお金」を持ってエクトールと向かった場所は、
『ビンゴ場』でした。
『Bingo Don Pelayo Barcelona』
前から目をつけていたビンゴ場です。
大きな扉のある入り口を抜けると、
ちょっと豪華な絨毯が敷き詰められた、怪しそうな雰囲気の広い会場の中に丸テーブルが会場いっぱいに並んでいて、そこを囲むように小金持ちそうな人がたくさん座っています。
店主、不覚にもちょっと緊張してしまいました。
なにぶん初めてだったもので(笑)
壁には、デジタルで現在のゲームの賞金が表示されています。
コンパニオンのお姉ちゃん達がチケットを歩いて各テーブルを回って売っています。
中にはかわいい子もいましたが、
コンパニオンっても『バニーガール』ではありません念のため(笑)
前方中央にメインテーブルがあり、透明なアクリルでできた大きな箱の中に、90個のボールがぐるぐると風で飛ばされていて、それが順番に機械によって選び出され、コンパニオンによって数字を読み出します。
チケットは六枚綴りでできていて、その六枚の中に1から90までの数字が15個ずつばらばらに入っています。
六枚のうち一枚だけを買うより、六枚綴りを1セット買ったほうが必ずどこかで数字が出てくるので、当てやすいといえば当てやすいですね、確率的にも。
そして、その一枚のカードの中のどれか一列が揃えば「Línea(リネア、列)」、
数字が全部埋まれば「Bingo(ビンゴ)」ということになります。
その六枚綴りを一組で買ってもいいし、その中の一枚だけとか、二枚だけとか、自分の好きな枚数だけを買うことができます。
確か、一枚300ペセタくらいだったような記憶がありますが、
ゲームによって値段も違ったりしていましたね。
もちろん、一枚が高い値段だと配当金も高いです。
当然、六枚綴りを買うほうが当たる確立が高いです。
ですが当然、自分の払う額も六倍になります。
うちらは二人で六枚綴りを買い、
『当たったら賞金は山分けにしよう』という条約を結んでいました。
初めてビンゴを体験した日は、読まれていくボールの数字を耳で聞きながら自分のチケットの番号を追いかけていくことができず、会場のいたるところにあるテレビ画面を見ながら番号を追っていました。
それが、次第に慣れてくると読まれている数字が自然と耳に入るようになり、自分にとってある意味いいスペイン語の勉強にもなりました。
賭け事を正当化しています(笑)
賞金は、そのときの参加数や一枚の掛け金にもよりますが、
大体リネアで10,000ペセタ、ビンゴだと60,000ペセタにもなります。
しかし、これがなかなか当たるようで当たらないんです。
当たり数字一つだけを残して、他の人に賞金を持っていかれたりすることは多々ありましたね。
そんな中、
初めてビンゴを当てたのは、
俺ではなくエクトールでした。
数字が残り一つになっても
『リーチ!』なんて普通言わないので、いきなりです。
俺の隣でさりげなく、
「Bingo」
と一言だけ言って、手を挙げるエクトール。
「え!? マジかよ!!」
その、
手を挙げた姿がなんともまぶしかったこと(笑)
もう一度言いますが、
数字が残り一つ前になっても「リーチ!」なんて言わないので、いつ誰が急に声を上げるか分かりませんから残り一つの時なんてかなり焦ります。
「残りあと一つ。出るか? 出るか!?」
会場がざわざわしてくるのでそれとなく『そろそろ誰か当たりそうだな』というのは判りますけど、そのときに自分の番号が全然揃っていないと悔しくてたまらないんですよ。
そうなったらもうそのゲームは捨てて、もうタバコに火をつけて次のゲームを待ちながら読まれた数字を自分のカードから見つけ、咥えタバコでなげやりな感じでめくります。
暇つぶしにコンパニオンのお姉ちゃんを眺めていたり(笑)
そして、ビンゴが出るとすぐにそれは近くに居たコンパニオンによって確認されて、場内に『ビンゴが出ました』とアナウンスが入り、賞金が渡されます。
エクトールが当てたときは
60,000ペセタを二人で割って、一人30,000ペセタの副収入。
貯金をしたり、生活費として使うどころか、
「よっしゃ!これからちょっと出掛けてパーッとやろうか!」
と、
エクトールのバイクの後ろに乗っかって、うちらは夜のバルセロナの街へと消えました。
とっておけば生活の糧となるのに(笑)
しかし、
あの日から
すっかり味を占めちゃいましたね。
週に一度のチップが入ったときには、いつからかジョルディや英ちゃんも含め皆でビンゴへ行くようになりました。
初めて当てたときのゲンを担ぎ、そのときにエクトールが頼んで二人で飲んでいたガス入りのミネラルウォーター「VICHY CATALAN(ニョスキにも置いてあります)」を、
グラスに氷をがっつり入れて毎回飲むようにしていました。
それだけ切実だったんですって(笑)
しかし、賭け事って魔物ですね。
大抵が無一文ですっからかんで帰ることのほうが多かったですけど(笑)
ですがある日、
英ちゃんと二人だけで行った時のこと。
ビンゴ場に入り、
『とりあえず』のつもりで最初に買った、六枚綴り一組。
「さぁて、今夜はどうなるかな?」
と思いながらカードをめくっていたら
英ちゃんがいきなり
「ビンゴ!」
「うそぉー!!」
なんと一発でビンゴが当たっちゃったんです(笑)
しかも、そのときは参加数も多く、
そのゲームの賞金が出ている電光掲示板を見たら、
『100,000pts』と、
それはもう、とてもまぶしい光を放っていました(笑)
二人で割っても、一人50,000ペセタ。
当然ここは勝ち逃げです(笑)
その後は二人で、
俺のバイクに乗って夜のバルセロナの街に消えて行きました。
スペインへ渡ってから
めちゃめちゃ仕事していましたが、
しっかり遊んでもいましたよ。
若い頃、先輩に言われたことを思い出します。
「いいか。仕事ができる人間ってのはな?遊びもすごく上手なんだよ。だから、いっぱい仕事したらいっぱい遊べよ!!」
はい。
俺もその道を行かせていただきます!(笑)
★★★つづく★★★
そんな中も、
仕込みと営業に追われる「クソ忙しい」毎日は全くと言っていいほど変わりませんでした。
料理を盛り込んで出すときは、とにかく俺一人だけでは回りません。
お客さんがお店に来るピーク時間は、21:45~23:00の間です。
その時間帯に一気にドカンと約200名。
さらに、ほとんどのお客さんの食べ終わる時間が一緒で、
しかも、十名くらいの団体さんテーブルの食事の流れが不思議なくらいいつも同じタイミングでまとまってオーダーが通るので、
「合計三十から四十名分のメイン料理を一気に出す」
そんなときもしばしば
っていうか毎日そんな感じでした(笑)
シェフも俺をいじめるように、どんどんとあおるんですよ。
そのあおり方が、想像を絶するくらいに異常でした。
俺に向かって大声で「テツ! 魚はまだかよ? 早くしろ!!」
だって、
「魚料理30皿を一度に出せ」って言われているようなものです。
もちろん、
俺にだけ必要以上にあおるのではなく、
ジョルディには、お米料理のオーダーを通して3分も経たないうちに
「ジョルディ!! アロスはもう出るか?」
いや、出ないって(笑)
しかしこの後にもオーダーがたくさん詰まっているので、うちらはとにかく急いで料理を出すだけです。
俺の向かいで米料理を担当していたジョルディが、ある日わざわざ俺の方まで来てくれて魚料理の盛り込みの手伝いをしてくれました。
魚料理とお米料理のオーダーの数は、比べ物になりませんでしたからね。
いつもジョルディは、俺の向かいで不安そうな顔で俺を見てました。
「手伝いに行きたいけどあっち(魚場)はあまりにもぐちゃぐちゃで、手伝いに行っても何をして良いのか分からない状態」でしたから(笑)
いろんな付け合わせの野菜がある中、アンコウの料理に添える葉玉ネギのフリットを取って、ジョルディが俺に一言。
「テツ、このÑoski(ニョスキ)をここに乗っければいいの?」
「え? なになに? あ、うんうん!それ乗っけて!」
さっきは忙しくて聞いている余裕もなかったのですが、
あの「ニョスキ」って言葉がやけに気になったんですね。
「ジョルディ、さっきの…、えっと、なんだっけ?」
「あぁ、『ニョスキ』だっけ? 葉玉ネギの名前がとっさに出てこなくてね、適当に言っちゃったよ」
「ニョスキ? 面白い単語だねぇ?」
それと同時に、ひらめきました。
「この名前、俺の店の名に使わせてもらおう!」
イタリア料理のニョッキではない、「ニョスキ」です。
それから、単に代名詞として、うちらの間で頻繁にその造語「ニョスキ」を使うようになりました。
「そのニョスキ、ちょうだいよ!」
皆でタバコを吸いに行くときにそれを言われれば、黙ってタバコを一本あげたり、
最初の使い方と一緒で、付け合せのものや、物珍しい食材を指す言葉にしたり、
始めて何かの名前を聞いて、覚えられないときには「ほにゃらら」的な使い方をしたりと、
「ある物の名前が分からない」
「その名前を言うのが面倒なとき」
「物の名前を知っていても、なぜか使いたくなる」
そんな時「ニョスキ」と言えばみんなもすぐに分かってくれ、周りの皆も一緒になって同じように使い出したんです。
いつの間にか、シェフまでもがそれを言うようになっていたから笑えます(笑)
そのうち、料理の上に飾るハーブや野菜で作ったチップスなど、「もの珍しい飾り」を指す言葉にもなっていました。
本来ですと、スペイン語表記では「K」を使う単語はほとんど無くて、「キ」というつづりは正しくは「qui」と書くのですが、最近、若い世代の人たちではこれを短くする癖があって「ki」というつづりにしている傾向があります。
最近の日本でも言葉を短縮したり略語を用いる場合があるように、スペインにもこんな方法でつづりを短縮したりするものがいくつかあります。
仮に日本で「Ñosqui」と付けていたら、
「ニョスキュイ」と呼ばれていたかもしれないので、あえて「K」を使いました。
―「Ñ」の文字を見れば、スペイン語以外その表記は使わないから、分かる人はすぐにスペイン料理だと分かってくれるはず。
もし分からなかったとしても、想像はできるかも?
この単語は造語だし辞書にも載っていないから、誰にも真似されることもないし。
日本でも、いや世界でも唯一の店になる。
それに、すぐに周りに浸透しやすい名前で皆に愛着を持ってもらえて、
いつの間にか、皆が知っている店になって、元の由来のように皆に気に入ってもらえる、そんなお店にしたい―
早速、「名付け親」であるジョルディにも、一言断りを入れておきました。
「ジョルディ、この『ニョスキ』って名前、俺がいつか出す自分の店の名前に使わせてもらうよ!」
「え?どうして?」
と、ジョルディは不思議そうな顔をしていましたが、
この名前は俺がいただきました。
でも、
この「ニョスキ」という単語を自分の店の名前にした一番の理由は、
「この頃の思い出全てを忘れないように」です。
楽しかったこと
面白くなかったこと
嬉しかったこと
辛かったこと
すべてひっくるめて、スペイン時代の『良い思い出』です。
それで、「ニョスキ」と付けました。
★★★つづく★★★
この頃、俺が始めたくだらない企画がお店で最高潮に盛り上がっていました。
「働いてるスタッフの誕生日を皆で祝おうよ!」という企画です。
今でも思い出すと、あの頃に戻ったみたいで懐かしくなってしまいます。
「誕生日おめでとう」はスペイン語で
「Feliz Cumpleaños(フェリス クンプレアニョス)」と言います。
ルックラがオープンした頃、前もって皆の誕生日を教えてもらっていました。
この日のために(笑)
そして、誰かの誕生日がくると、
仕事が終わってからお店のパティシェが作った小さなケーキに一本だけろうそくを立てて
調理場のキッチンの電気を全部消して真っ暗にして
お願い事をしてもらってろうそくの火を吹き消させた後
皆とカヴァで乾杯して祝うという、「なんとも微笑ましい企画」でした。
余り物のパンにチョコを塗ったりホイップクリームを塗ったりしてケーキの代用品を作り、そこにろうそくを立ててお祝いをしたこともありましたね(笑)
そんな中、
都合が良くエクトールの誕生日(8月10日)が近づいてきました。
最初はそんなに大事になるとは思わず、軽めに仕掛けました。
いつものように、ろうそくを立てた小さなケーキにカヴァを用意します。
ここまではいつもと同じですが、
そのカヴァを、乾杯すると見せかけてエクトールの頭と顔にめがけて皆で一気にかけたのがその始まりでした。
そのときエクトールは何か言っていましたが、
彼もまんざら悪い気はしていませんでしたね(笑)
そして、
それが日に日にどんどんエスカレートしていき、
回を追うごとに大イベントになっていきます。
誰からともなく、です。
・カヴァ
・ 生卵(殻付のまま頭の上でつぶされます。ちゃんとシェフには事前に了解済みですよ!)
・ プラスチックバケツに入った液体ミックス(何が入っていたかはここでは言えないくらいすさまじいものでした)
中には、液体をかけられて「目が痛い!目が!!」なんて言ってるコックもいましたけど、皆お構いなしでしたね(笑)
「いいよ、いいよ、全部混ぜちゃえ!!」と、誰からともなく言い始めて。
あ、
俺じゃないですよ?この液体を最初に作ったのは。
俺は生卵で十分満足していましたからね。
さてさて。
誕生日の方は、「牛乳パックを入れるプラスチックでできた四角い箱」をさかさまにした即席の椅子に座らされ、そして皆がその周りを囲みます。
その時点で、皆の顔から笑いが出ちゃってます(笑)
そして、調理場の電気を消し、外の客席に聞こえないように(いや、確実に聞こえていたでしょう)大声で誕生日の歌を唄います。
唄い終わった瞬間、大歓声と共に、
総攻撃(笑)
毎回ちゃんとシェフにも事前に了解を取っていたので、
「安心して祝っていた」というより
あれは完全にはしゃいでいましたね。
しかしどうして「ここまで汚せたか?」といいますと、
お店の更衣室にはシャワー室がご丁寧に備えてあって、そこで全部きれいに洗い流せたからです。
もちろん、その後は皆で厨房の床をきれいに掃除して、しっかり後始末もしていましたよ。
なんだか派手そうに聞こえるかもしれませんが、
液体の量は大体合計で三リットル前後くらいでした。
十分に派手ですね(笑)
俺は、いつも誰かの誕生日になると率先してその「宴会部長」を務めていましたが、
自分だけはやられたくなかったので、誰にも俺の誕生日は教えていなかったんですよ。
しかし。
エドゥアルド経由で俺の履歴書を皆に見せられて、俺の誕生日はすぐにばれました。
俺の誕生日は12月15日です。
今までスペインでは、
俺の誕生日になったら、
・ ケイゴさんの店では「ピエジャ」で作ってくれたケーキでお祝いしてもらったり
・ ジローナでは同居人が皆で俺にZippoライターを贈ってくれたり
と、―なんとも微笑ましい誕生日のお祝い―でした。
が、今年はそうはいくわけがありません(笑)
今まで俺が先陣を切ってはしゃいでいたため、
皆は当然のように俺に「仕返し」がしたかったんです。
当たり前ですよね(笑)
さて。
俺の誕生日当日。
営業が終わるにつれて、みんなの顔から笑顔がこぼれ始めます。
いや、笑顔というより、何か企んでいる憎たらしい顔です。
もちろん覚悟は決めていましたが、反面かなり憂鬱でしたよ。
しかし
「一年に一度だけ!」
いや、「一生に一度!!」と思い、腹をくくります。
そして、ついに俺も箱に座ってしっかりとお祝いしてもらいましたが、
今までの「ツケ」と、「テツは外国人」ということもあり、それはまた派手にやられました。
頭の上にかかってきた物は、
この世のものとは思えない、とにかく訳の分からない液体で、
コックコートの白い色も分からなくなるくらいに判らない液体をかけられました。
これで、俺のコックコートがゴミ箱行き決定。
ワケの判らない液体が体中に染み渡ります。
何とも言えない気持ち悪さ(笑)
すぐにシャワー室に行って体を流したあと、
シャワーから上がったら、
またそこをエクトールとジョルディにここぞとばかりに生卵を頭からやられました。
「なんだよ~! 今洗ったばっかりだろ!!」
すると二人は、「いいだろ、卵のトリートメント。卵は良いらしいぞ~?」
ムカつくから、その生卵でベトベトの俺の頭を、
二人が着ていたコックコートをタオル代わりにして、擦り付けて拭いてやりました(笑)
当然、英ちゃんも彼の誕生日にその餌食になったのは言うまでもなく、
挙句の果てにはお店のウェイトレスのお姉ちゃんまでもが皆の餌食となっていました。
みんな、なんだかんだ言っても
そうやって祝って欲しかったみたいです(笑)
中には、それが嫌で店の中を逃げまくって、転んで壁に頭をぶつけて頭を切ってしまい病院に行って数針縫うコックもいたので、こういうおめでたいことは皆の同意の上でお祝いしましょうね。
だけど、
「やられる側」も意外と楽しいのも事実ですよ(笑)
★★★つづく★★★
英ちゃんがまだスペインに戻ってくる前、
ついに待ちに待った「セクション移動」があり、
晴れて俺は魚料理を担当することになりました。
英ちゃんが帰って来るまでの間、コール場には新しく入ったスペイン人コックが引き継ぎでやることになったのですが、
前にも話しましたが、そんなに簡単な事ではありませんでした。
エドゥアルドもそれを見兼ねて、「テツ、SUSHIを作ってくれないか?」と頼んできたのですが、魚料理のセクションを担当しながらの掛け持ちは、誰がどう見ても明らかに不可能ですし、他の人だってそんなことやっていません。
だって無理なんだもん(笑)
そして、考えた末に出た答えは、
「SUSHIを教えながら魚料理も担当する」という、かなり無茶なことに。
まぁ、英ちゃんが帰って来るまでの間だけだし、なんとかなるでしょ?
ところが、なんとかなりません(笑)
店はどんどん忙しくなってきたのでコックを何人も雇うようになりましたが、それと同時にコックが多いからとシェフも安心して新メニューを増やし始めるので、暇になるどころかますます忙しくなります。
魚のセクションだけで持ち料理が
・ アラカルトの魚料理八品(だけど魚を掃除するのは仕込み場の担当です)
・ ランチのメインで一品
・ さらに温前菜の鰯のフリットもツーオーダーで俺がやることになって、
・ それにコール場の寿司。こちらは教えるだけですけど、教える時間ってどこに!?
・ 八品の魚料理には、ソースと付け合わせの野菜がそれぞれにあります。
レストランが港のすぐ近くにあるということで、この店の客の三分の二が、メインに魚料理をチョイスします。
営業が始まると、魚セクションの仕事はこんな感じです。
・オーダーが入った順番に、引き出し式の冷蔵庫から魚を出し、バットに並べ、一気に魚に味をします(この間、わずか5~10秒です)。
・味をつけた魚をどんどん鉄板の上に乗せ、焼き色を付けてから一度取り出し、あとはオーダーの順番にオーブンで火を入れてお皿に盛り、付け合せとソースをかけて仕上げていく
という流れです。
およそ80cm×60cmの鉄板の一面、魚だらけです。
一度に20人分くらいの魚のフィレが鉄板に。
隣では肉料理の担当が同じ鉄板でお肉を焼くのですが、
まさに「陣取りゲーム」。
「お前!ここから先は魚を焼くから使わないでくれよ!!」
鉄板のスペースの割合は
「五分の四が魚、五分の一が肉」(笑)
だって肉料理のオーダーは少ないんだもん。
それはもう、
「隣の畑」が良く見えて仕方がなかった頃です(笑)
そして、味を付けた魚を順番に並べていくうちに、最初に焼いた魚に焼き色が付いていい感じになり、早く返さないと魚が焦げちゃいます。
さらには途中で「鰯のフリット」が入ると、鉄板があるところからフライヤーのある場所へ小走りで移動しないといけません。
持ち場(鉄板)を離れると、ちょっと大変なことになります(笑)
そして、「220名の三分の二」の魚料理のオーダー。
=約150名は魚料理をチョイス、という計算になります。
ソースや付け合わせの野菜などは、午前中にいっぱい仕込んだものがその日のうちに使い切ってしまい、翌日またすぐに仕込まないといけない状態です。
そんな毎日だったので、このセクションでも中抜けはできず、
夜も2時まで残って、エクトールと口げんかしながら「付け合せ用のオリーブ」の種取りをやっていたことを思い出します。
そういった地味な仕込みは、あの営業中にはとてもとても(笑)
「『出来ない』と言うのがとてもくやしいから、何が何でも仕込んでやる」
と意気込むと、シェフからすると
「なんだ。できるならもっと魚料理をアレンジしようか」
となり、気が付くとびっくりするくらいの仕込みの量になっていました。
ランチで1品
アラカルトのソースは8種類
付け合せも8種類
魚の上に乗せる飾りも、8種類
で、約150名分。
10時出勤で13時からランチ営業が始まりますが、
12時から従業員の食事です。
2時間で全てを仕込まないといけません。
アハハ(笑)
もう笑うしかありませんよね。
だから、営業前の食事は調理場で立ち食いして、午後の中抜けもせず、ひたすら残って仕込みですよ。
「手が遅いから間に合わない」のではなく、
「仕込む量が尋常ではなく、というか異常」というのが正解です。
だけどシェフには、何が何でも「できません」とは言いたくなかったんです。
こうして当時を思い出話をしていると、なんだか少し爽やかに聞こえるかもしれませんが、
要は、
「ただの頑固なガキんちょ」だっただけです(笑)
冬になる前に、やっと英ちゃんがスペインに戻ってきました。
日本で学生ビザを取って、少しの間バイトをしていたみたいです。
ビザを取りに帰っただけと思っていたので、「ひょっとしたら、このまま帰ってこないのかな?」そうやってエクトールと話していましたが、そこまで心配することはなかったようです。
しかしうちらにとっては、3人と2人でシェアするのでは一人当たりの家賃の負担額が大きく変わって生活費に大きく響いてしまうので、とにかくもう一人誰かに来て欲しかったため、そんな心配をしていたのです。
だって、
うちらが毎月遊べる金額が変わってきますから。
まさに「死活問題」です(笑)
そして、英ちゃんは初めに俺の働いている魚場に一緒に入って手伝ってもらい、何日かして店に慣れたころに彼はコール場へ入り、コール場の仕事と共に寿司を作ることになりました。
当然彼が作る「寿司」は、俺の“なんちゃってSUSHI”とは比べ物にならないくらいに上手で、彼の仕事の手際も良く、すぐにうちらは打ち解けて仲良くなります。
彼は今でも、俺が尊敬するコックの一人です。
この世界、というよりどの仕事にでも言えるのが、
「お互いに息の合う仕事をしていれば、相手の様子など伺うことなどせずにすぐに打ち解けて仲良くなれる」ということ。
彼とは職場でもプライベートでもほとんど一緒だったのにもかかわらず、お互いに海外生活が長いためか、日本特有の「遠慮のし合い」などはほとんどなく、何でも言いたいことは言って、やりたいようにやって、気兼ねなく生活していました。
相性が良かったんでしょうね。
もちろん、親しい仲でもお互いに礼儀だけは忘れません。
そこをおろそかにすると、一発で関係がダメになっちゃいますから。
たまに彼と休みが一緒になると、「東京屋」で食料を買ってきて家で日本食をよく作って食べた。カレーだったり、丼ものだったり普通の日本食なのですが、一人で食べるよりは当然美味しいですよね。
職場で「同じ釜の飯」は誰とでも食べられますが、
「家でまで同じ釜の飯を食べる」という経験はそうなかなかできないでしょう。
ちょっとした自慢です(笑)
もちろん、休みの日の食事はいつも家で作るわけではなく、
バルセロナにある「小雪」という日本食屋によく行きました。
ご飯食べたあとは、ビンゴゲームをしに近くの会場まで行く
というお決まりのお休みスケジュール(笑)
ビンゴで遊ぶお金が無くなるとまっすぐ家に帰っていましたが、これでビンゴが当たってしまうと、夜更かしですよ(笑)
ルームシェアをして同じ職場でと、これが日本ならいつも一緒にいるとホモかと疑われそうですが、そういうことではなく、
逆に言えばそれだけ仲が良かったし、職場では俺の良きライバルでもありました。
彼は、俺以上に職人気質なところがあります。
俺は自分でもある程度「細かい」とは思っていても、
「美味しいものができればOK!!」的な柔らかい部分もあるので、彼のことがたまに頭が堅いなと感じることもありましたが、逆にいい刺激になったし、彼の仕事を真似てみたりもしました。
そんなある日、彼にこんなことを言われました。
「てっちゃんと一緒だったら、二人で魚料理250名分の仕事も楽勝だよ!」
嬉しい褒め言葉ですが、
いや、絶対に無理だって(笑)
――今まで全く違った環境で学んで来た二人が、
お互いが今まで勉強してきたこと、持っているものを隠さずに教え合って、吸収して、お互いに成長する――
そんな理想的な関係でした。
同じ仕事をしている仲間でも、普通の友達のようにものすごく仲が良くなるという例はそんなにないと思うので、この「不思議な縁」をこれからもずっと大事にしていきたいですね。
いつかまた一緒に仕事したいなぁ。
★★★つづく★★★