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エル ニョスキ店主の スペイン バルセロナでの料理修行体験記。 といっても、 料理のお話だけではありません! 時間があるときに少しずつアップさせてもらいます♪ ※当ブログの無断転載はしないでくださいね!! でもまぁ転載するほどの大作でもありませんけど(笑)
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2008/11/19 (Wed)
 
 
一九九七年、十一月。
 
長いことお世話になったホテルを後にしてスペインへ行く前に、横浜の実家へ顔を出しました。
 
 
「俺、今年の秋からスペインに仕事しに行くよ!」

「お前、外国なんて行って、保険とか給料のこととかはどうなってるんだ? 向こうで怪我したりもしものことがあったら、お前どうするんだ?」
 
親父にこんなことを言われ反対され始めたのは、スペイン旅行から帰ってきた七月。
広島から、横浜にいる親父に電話をかけたある日のことです。
 
それでも俺は、とにかく親父を説得するしかありません。
 
「どうしてもこの仕事をしていたら、いつかは海外へ行ってみたい!」、

「本場のものが見てみたい!」など

他にもたくさん、あの手この手を尽くして親父を説得です。
 
保険とか給料とか、そんなものは二の次でした
 
 
 
というよりか相変わらず何にも考えていませんでした(笑)
 

もしも、向こうで怪我をしたり万が一のことがあったとしたら、それはきっと自分にとっての運命であって、例えば同じ時期にどんなところにいても、「それはいつか訪れる事」と俺は思っています。
 
 
「開き直り」が、稀に「ものすごいチカラ」を発揮することがあります。
 
 
―スペインに行っても行かなくても、自分の人生の長さは変わらない―
 
 
 
 
それならもちろん、
「スペインへ行く」という方に、俺の人生の全てを賭けます。
 
先の事は、先になってから考えます。
 
 
ホント、楽天家です(笑)
 
 

そして、必殺の一撃。
 

「そこまで反対するなら、成田からじゃなくて関空から行くわ。横浜寄らずに」
 

「いや、ちょっと待て」

正直、あまりこれは言いたくありませんでした。 
 
きっと、親に対してはかなり寂しい言葉でしょうが、
それでも俺は、どうしてもスペインに行きたかったんです。

―こんなチャンスを逃したら、もう二度と巡ってこない―
 
さすがに、親父も俺のこの一言が利いたみたいで、
渋々、俺のスペイン行きを認めてくれました。
 

ホント、なんも考えてない親不孝者です。
 
 
 
 



横浜へ戻ると、
康一をはじめ、友人や横浜のホテル時代の同僚達が、
俺のために「送別会」を開いてくれました。

「送別会」というより「飲み会」ですが(笑)

飲みに行っては、皆との昔話に花を咲かせ。

「昔話」というほど遠い昔の話ではありませんが、かなり前の話のように感じます。

友達っていいもんです。

11月15日にホテルを退職して、翌日に横浜へ。
んで、成田を出発するのが11月28日。
 
横浜に戻ってから毎日のように友達と飲みに行ってたら、ろくに出発準備もできません。
 
「全部片付けるのは無理!」と、
引越しの荷物を片付けるのはスペインから戻ってからにしようと決めました。

いつ戻るか分かりませんでしたが(笑)

ということは、
実家の片隅に引越しの段ボール箱が山積みの状態のまま放置されることとなり、
その横で俺はスーツケースに荷物を詰めたり、
しばらく使わないであろう物を箱に詰めて押入れにしまったり、
 
要は、部屋中箱だらけ(笑)
 
 
 
ですが。
睡眠時間3時間くらいで荷造りすること約2日。
とりあえず、スペインへ行く準備は整いました
 
いや、無理矢理間に合わせました。
 
気が付けば、
「そんなに要らないでしょ?」というくらいのすさまじい量に。
ある程度の荷物は前もって航空便で送っていましたが、それでもスーツケースははち切れんばかり。
ギューギューに押してからスーツケースを閉じてロックをかけると、
もうロックを外せないくらいにパンパンです。
 
他の荷物は、「SAL」という安くてそこそこの日数で届く航空便で事前に送ることができたので、金銭的に助かりました。荷物ごときに大金は使えません。
 
だからスーツケースがパンパンなんです

いや、
余計な物のほうが明らかに多かったのかも(笑)
 
 
 
さて。
スペインへ出発する日になりました。
 
出発の朝、俺の幼馴染二人がわざわざ彼らの仕事を休んでまで、
横浜から成田空港まで車で送ってくれる事になりました。
彼らとは、幼稚園の頃からの幼馴染です。
 
 
「鉄也をよろしくね」
 
と、出掛けに親父が二人に声をかけていました。
 

 「まぁ、向こうに着いたら連絡するよ」

 「おぅ。それじゃ頑張って行って来いよ」
 

俺と親父の会話は、それほど長くありませんでした。
 
別に、「これでもう一生会えなくなる」わけではありません。
 
こういうところで「親子」というのは、
お互いに恥ずかしがるものなのでしょうか?
照れくさく感じるのでしょうか?
 
うちらには、
特別な、別れを惜しむような言葉とかは特に必要ありませんでした。
 

「いってきまーす」

「いってらっしゃーい」


俺は、それくらいの気分でした。

だけど、やっぱり照れくさかったかな。

それまでに、親父とそんな別れをしたことがありませんでしたから。



親父はその時、何を考えてたんでしょうね。


俺と同じかな。

 
 
 
 
 

 
一九九七年 十一月二十八日。
 
いつのまにか肌寒くなっていた気温の中。
その日、気持ち良く晴れた朝陽は、
荷造りで睡眠不足の目にはかなり眩しかったのを覚えています。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「太陽も俺を祝福してくれた/見送ってくれた」とか言いませんから(笑)
 
 
 
「ホントに俺、これからスペインに行っちゃうの!?」
 

ここまで来て、まだ実感が湧いていなかったこと、
今でも覚えてます。
 
 
だけど、
ここまで来たらもう後には引けません。

前に進むだけです。 
 
 
 
 
スペインでたくさん料理の勉強をして
 
いつか日本に帰ってきた時
 
小さい頃からの夢だった
 
「ぼくのおみせ」を実現させるために
 
 
 
今、新しい第一歩を踏み出しました。
 

★★★つづく★★★
 
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2008/11/12 (Wed)
今回の旅行の目玉であった「ケイゴさんへの挨拶」も無事に済ませると、
あっという間に日本へ帰る日が迫ってきました。
 
今日は、タカコさんの友達のおばあさん宅で昼食会があるのでどうかと誘われていました。
 
一人でどこかに出かけてもどうせ迷うだけだし、こんな機会は滅多にないと思い、その食事会へ一緒に連れて行ってもらうことに。
 
タカコさんと歩いて、食事会のお家へ到着。
部屋に着くなりまず、おばあさんが皆の前で自宅のキッチンの自慢話(多分)をしていました。
その家には、おばあさんの親戚や知り合いの若い女性も来ています。
皆で大きな四角いテーブルを囲み、席に着く前に一人ずつ自己紹介です。
 
というか、
俺はできれば自己紹介なんてしたくない!という気分でいっぱい。
だって、
それまで会話の練習なんてほとんどしたことないんですから(笑)
 
でも、気が付けば俺の番です。
俺はとにかく緊張しながら、つたないスペイン語で自己紹介しました。
 
とりあえず自己紹介できていたとは思うのですが、
きっとスペイン人からしてみたらカミカミだったでしょう(笑)

その後俺は、
話には聞いていた自己紹介の際にするという
「ほっぺに二回、キス」を、生まれて初めて体験。
とにかくそんなことは今までにした事がないし、日本にはそんな風習もないので、
かなり照れながらも内心では喜んで相手の女性のほっぺにキスをしました。
 
そういうところはやけに積極的な店主です(笑)
 
そして皆で席についた後、テーブルに並んだいろんな家庭料理を一品ずつ紹介してもらいながら少しずつつまんで、ワイワイと楽しみながら食事をしました。
 
「こういう雰囲気っていいなぁ。日本でもいつかこんな食事、皆でできたらいいなぁ!」
 
スペインでは、とにかく食事の時間を楽しむんだなぁと感じました。
日本の社会での食事からは全く想像がつきません。
いや、当時の俺がそういう生活をしていたからでしょう。
 
日本人全員がそういう食生活ではないのはもちろんですが、
ただ「立ったまま食べて飲み込む」ような食事とは、大違いでした。
 
俺が日本で働いていたときは「早メシ」が当然のように基本で、
常に忙しい中、飲み込むような食事と焦りながら吸うタバコを毎日十五分以内で済まさないと
仕事が間に合わなかったのです。
たまに外食しても、もちろん自分が若かったということもあるのでしょうが、
今までそんなに食事に時間をかけたことがなかったんです。
それとは正反対に、スペインに来てからノボルさん達にレストランに連れて行ってもらうと、いつも食事するのに結構な時間がかかりました。スペイン人は、食事をするには大抵二時間くらいかけて食べるのが普通だそうです。
とにかく、最初は落ち着かなくて落ち着かなくて(笑)
しかもスペインでは、仕事中にもかかわらず大勢の人が昼間からワインを飲んでいます。朝一からバルでビールを飲んでいる人も多く見かけました。
最初見たときはビックリしましたが、そういうところにもスペインの文化を感じました。
 
また、おばあさんが作った手料理もどれも美味しく、レストランで食べる料理とは一味違った感覚で食事を楽しませてもらいました。

もちろん、時間をかけてゆっくりと。
 
「こんなスペインの家庭料理を、いつか日本で自分の店を出して、日本の皆に食べてもらいたい!」
 
いつの間にか、そんな夢が頭から離れなくなってました。
 

そんなこんなで、気がつくとあっという間に一週間が過ぎていて、もう日本に帰る日です。
 
「本当にいろいろとありがとうございました! 数ヵ月後にはまたスペインに来ます。今度バルセロナに来るときはしばらく日本に帰るつもりはないので、またそのとき、色々とお世話になると思いますが、よろしくお願いします!」
 
と、ノボルさん夫婦にお礼の挨拶を交わして、いざ空港へ。
 
タカコさんに空港まで送ってもらい、無事チェックインも済ませ、飛行機に乗る。
 
 
 
帰りの飛行機の中で、一つの決断をしました。
 
「この夏はホテルで働いて、秋、十一月にホテルを辞めてスペインへ行こう!」

 
 
広島に戻ってからすぐにジャンボさんのお店に顔を出し、無事帰国したことを報告して、秋にスペインに渡ることを伝えました。
 
「いよいよかぁ。寂しくなるねぇ… スペインから帰ってきたら、一緒に働こうな!」
 
カンペシーナにはジャンボさんの奥さんやアルバイトの従業員さんが結構いたし、俺もホテルで働きながらよそでバイトをしていたので、未だにジャンボさんと一緒に働いたことがなかったのです。

今でも一緒に働けていないのが残念ですが。
 
そして、ホテルに出勤してからすぐに料理長に帰国の報告と退職願を伝えました。
 
「退職したら、スペインへ行ってきます!」
 
自分の心はすでにスペインに向いていました。
 
まだ六月で、十一月の退社までには充分な時間があったので、辞める際にそんなにもめることもなく料理長にも快く承諾してもらいました。
 
すると、あっという間に俺の話はホテル中に知れ渡ることに。
 
「がんばってね!」
 
という声をたくさんかけていただいても、なかなか実感がわきません。
辞めるのは3ヶ月も4ヶ月も先の話ですからね(笑)
 
ホテルの人達から色々な激励の言葉を受ける中、尊敬していたある先輩から、
 
「お前、すごいなぁ。俺にはそんなことできないよ」
 
と、ため息混じりに言われたのを今でも覚えています。
 
 
正直なところ、ちょっと残念でした。
その人とは職場は一緒になったことはないけど、
「すごい人だ」というのは感じていました。
 
「こんな人になりたいなぁ。いつか、この人に追いつけ追い越せ!」
 
と思える人だったのに、
まさかそんな事を言われるとはこれっぽっちも思ってませんでしたから。
 
 
「これって、すごいことなの?」
 
いや。
すごいことだなんて、お世辞でも言われたくありません。
 
 
ラッキーなことに綾乃ちゃんから突然スペイン行きの話をもらい、
悩みに悩んで、
悩んだ挙句に「海外に行こう!」と決意して、
自分なりに準備して、飛行機のチケットを買っただけです。

単に「ツイていた」だけです。
 
 
俺以外にも、海外に行く人なんてわんさかいます。
 
 
自分なりには
「すごいこと」ではなく
「思い切ったこと」と思っています。
 
当時、まだ23歳という若さだったから思い切ったことができたというのもありましたし、
なにより一番の理由は
 
「何も考えずに突っ走る性格だった」という事に尽きるでしょう。
 
 
 
もちろん、今でもその性格だけは変えられないようです(笑)
 

「先輩」という話で思い出しましたが、
いつの頃からか自分の中には「俺はこうでありたい!」という「理想の先輩像」というものがあって、
「いつかこの先、後輩ができて俺が先輩になったら?」
ということなどを考えたことがありました。
 
当時まだ小僧のくせに(笑)
 
横浜のホテルで働いていたときに理想的な先輩と出会えたことが、その主な理由です。
その先輩は、仕事はもちろんできる人で、いつでも何でも詳しく教えてくれます。仕事が終わってからでも小僧の身分の俺に付き合ってくれて、一緒に食事に行くにしても飲みに行くにしても、先輩は絶対俺に一円も払わせてくれないんです。
 
「いいからいいから。お前は払わなくていいから!」
 
「いや、でもいつも先輩が僕におごってばかりじゃないですか?」
 
俺が何を言おうが、先輩は無視。
そして最終的には、いつも俺がおごってもらってばっかり。
そのとき、決まって先輩の口からは
 
「いつかお前に後輩ができたら、そいつにおごってあげてよ! 俺も若いときはそうしてもらってたし。お金ってそういう風に回るんだって!」
 
最近になって、その意味がやっと解りました。
 
別に「おごってくれるから良い先輩」なのではありません。
少し大げさかもしれませんが、
「自分のことを犠牲にしてまでも後輩に尽くしてあげられる」
そんなところにすごく憧れました。
 
きっと当時、先輩の財布の中身は、
失礼だけどそんなに潤っていたわけでもないはずです。
 
もちろん俺だって誰にでもおごるわけではなく、「やる気のある、向上心のある後輩」にしかおごらないのも事実だし、いつも財布が潤っていたわけでもありません。
給料前なのに無理しておごっていたのも事実ですし、先輩だって同じだったはず(笑)
 
だけど、「自分を犠牲にしてでも可愛がりたい後輩」というのは、
 
「これから先、彼がどういう風に成長していくのか見てみたい」
「できれば、俺も彼の成長を手伝いたい」
 
そう思える後輩のことなのかな? と思います。
 
 
そして数年が経ち。
現在の俺は気が付いたら、当たり前のようにかっこつけて先輩の真似をしていて、後輩には仕事の帰りにメシをおごるようになり、先輩と同じことを言うようになってました。
 
まだ若いくせに、先輩気取ってます(笑)
 
 
だけど俺は、あの先輩からいつも言われていた言葉に、
さらにもう一言付け加えて後輩に言うようにしています。
 
 
「いつかお前にも後輩ができておごってやるときは、俺の顔ぐらい思い出せよな?」
 
 
 
実際に、あの先輩だけは今でも忘れません。
 
 
 
「安藤さん、お元気ですか?」


 
★★★つづく★★★
 
2008/11/06 (Thu)
そして四日目。
 
やっと、待ちに待った『ケイゴさん』に会いに行く日になりました。

その日の朝、タカコさんがサンツ駅まで見送りに来てくれると、
 
「これ、電車で食べてね。周りの人に不思議がられるかもしれないけどね!」
 
と言って笑いながら、タカコさん手作りのおにぎりを俺に渡してくれました。
 
 

慣れない改札を通り、ホームへ続く階段を下りて電車が来るのを待ちます。

ホームには、日本人なんて一人もいません。

これから、どこに着くのかも分からない電車に一人で乗ります。


このワクワク感、たまりません。




バルセロナサンツ駅から、電車に乗って北東へ向かいます。

電車の窓から見える景色は、まさに「世界の車窓から」の世界。
 

またここで調子に乗り始めてます(笑)
 

のどかな田舎風景を眺めながら、
タカコさんからいただいたおにぎりを食べました。
 
隣の座席にいたスペイン人は、
俺を見るよりその「不思議そうな食べ物」に目が行っていたのは間違いありません。

そりゃ、今までに見たことのない
『黒い塊』を口にしているのですから、驚くに決まってます(笑)
 
タカコさんから、「降りる駅を間違えたり、乗り過ごしちゃだめだよ!」と言われていましたが、
もちろん俺は周りの誰かに聞くことすらできないので、
電車の中にある電光掲示板を出発してからずーっと見続けるしかありません。
すると、
外の景色を見ているよりも次第にそっちばかりが気になってしまい、

「ったく、一体いつになったら着くんだよ~」

と少し弱気になりつつ、
『Cardedeu(カルダデウ)』という駅の表示が出てくるのをひたすら待ち続けました。
 
 
電車がに乗って約四十分くらい北東のところに、カルダデウという村があります。
ケイゴさんは8月、その村にレストランをオープンさせる準備をしていました。
 
ジャンボさんとケイゴさんは二十数年前、バルセロナにある日本料理店で知り合って一緒に仕事をしていたと聞いています。ケイゴさんは柔道の先生として日本からバルセロナに来たそうです。

そこに空手を習いに来ていたスペイン人女性、ロサさんと知り合い恋に落ち、結婚。

後に帰国、ケイゴさんの故郷の静岡県の浜松市でスペイン料理レストランをオープンさせ、その数年後にロサさんの家の都合で再びスペインへ。
今度はこの村でレストランをオープンさせるということでした。
 
駅に着き、改札を出ると、すでにケイゴさんが車で迎えに来てくれていました。
それまでケイゴさんの顔すら見たこともなかったので、俺はとにかく緊張。
 
さんざん調子に乗りまくってコレです。
やはり『弱冠23歳』(笑)
 

  「は、初めまして、寺門です。 よ、よろしくお願いします!!」
 
「はい初めまして。 遠いところ、良く来たねぇ」
 
緊張しながらのぎこちない会話の後、すぐにケイゴさんの店に連れて行ってもらいました。
実は、駅から歩いて五分としないところなのにも関わらず、ケイゴさんは俺に気を遣ってくれたのか、わざわざ駅まで車で迎えに来てくれていたのです。
 
 店に着くと、店内を案内してもらいながらいろんな話をしました。
ジャンボさんに『ケイゴさんのお店の写真を撮ってきてな』と頼まれていたので、俺は使い捨てカメラで店内をパシャパシャと撮り続けていました。
 
 
見知らぬ俺を受け入れてくれたことへの感謝の気持ち。
これからこの店で、ケイゴさんの家でお世話になるご挨拶。
これからの自分がどんな方向に向かいたいのかとか、現在のジャンボさんの事など、
夕方近くまで二人で話し続けました。
 
「すごい。なんでこんなに俺の口からペラペラと?」
 
「自分の数年後のビジョン」がすでに見えていたかのように、
俺の口から言葉がどんどんと出始めて止まりませんでした。
 
それとは別に、やはり前々から気になっていたのが、労働許可の件。
 
ケイゴさん曰く、
「何にもしてこなくても大丈夫だよ、なんとかなるから」
と結構簡単そうに話していましたが、

これが後に大事になるとはその時の俺は知りもしませんでしたね。
 

 
「それでは、帰国したらいつホテルを辞めるとかこちらに来る日程などを連絡しますので、
よろしくお願いします!」
 
「はいよ。帰ったらジャンボくんによろしくね」
 
こんな会話の後、帰りも歩いて5分のところをまた車で送ってもらって駅まで行き、
電車に乗ってバルセロナまで帰りました。

食事をするのも忘れ半日も話し込んで、
ホッと一安心したのか集中力も途切れてしまい、
帰り道はクタクタに疲れきっていました。
 
それに加え、朝におにぎりを食べてからなんも食べてない。
とにかく腹が減ってどうしようもなく、
バルセロナに着いてからノボルさんの家に帰る前に、
駅の売店で店員に指を差しながらサンドイッチを買い、おもむろにほおばりました。
 

「ついに俺、バルセロナへ料理の勉強に来ることができるんだ!」
 

そう思った途端、急にお腹が空いてしまったのでしょうか。
周りを気にせずにサンドイッチをガツガツと食べ続けました。
 
 

 
無我夢中で追い続け

気が付いたら
 
「今までずっと手に届かなかった夢」が

今、俺の手のひらの上でコロコロと転がっていました。





このチャンスは、絶対誰にも渡しません。


★★★つづく★★★
2008/11/02 (Sun)
気が付いたら俺は、機内で少し眠っていました。
 
目が覚めると、あと1時間くらいでローマに着くというアナウンスをしていました。
 
もちろん日本語のアナウンスですよ(笑)
 
そして飛行機は無事にローマに着陸し、俺はローマの空港内で多少迷いながらも、バルセロナ行きの飛行機に乗り換えました。
 
ローマから乗り換えた飛行機に乗ること、約2時間。
無事に着陸もでき、どうやらバルセロナに着いた様子。
 
が、なんとその着陸した飛行機に、何かが起きています。
 
スペイン語も英語も分からない俺にとっては、飛行機が着陸してからいったい何が起きているのかがさっぱり分かりません。
しかもなんだか周りがざわざわしています。
 
が、周りには言葉も通じない人でいっぱいなワケですよ。
すでに日本人客はローマで降りてしまっていて、俺の周りに日本人なんて誰もいません。
「よし!こうなったら身振り手振りで聞くしかない!!」と思い、
勇気を出してジェスチャーをしながら聞いてみました。
 
 
 
ジェスチャーだけで、
「ここはバルセロナじゃない」
というのはなんとなく分かりました(笑)
 
とりあえず通じるか分からないけど、俺の「自慢できるくらい下手くそな英語」で話してみようとさらに勇気を振り絞って隣の人に聞いてみると、
 
「地中海にある、マジョルカ島というところに止まっている」とのことでした。
飛行機はバルセロナに直行せずに、予定外の場所に着陸したワケです。
 
もちろん周りも半分以上、いやほとんどの人が文句を言っていた(ように聞こえた)ので、ほとんどの乗客がこの途中の経由は聞いていなかったのでしょう。実際その空港で何人か降りていたのでその人たちは知っていたのだと思いますが、こんなこと普通ならありえません。
 
「普通、最初にアナウンスくらいするよなぁ? どーなってんだよ!!」
 
もちろん俺はスペイン語でも英語でもそれを言えるワケがないので、
「弱冠23歳」は、そう心の中で怒っていただけです(笑)
まぁ、アナウンスしてくれたところで俺は全く分からなかったのでしょうが。
 
そのため、21時半にバルセロナの空港に着く予定が、なんと23時近くになってしまいました。
しかも、ノボルさんの奥さんのタカコさんが俺のことを空港まで迎えに来てくれるという話だったので、これもまた大変なことになってしまいました。
到着予定時刻よりさらに約二時間も待たせてしまった上に、タカコさんと連絡の取りようもないのですから…
 
その後、飛行機はマジョルカ島より離陸。
予想外のハプニングに俺の疲れはピークに達しています。
それから約1時間後、遅れながらもなんとか無事にバルセロナに着くと、タカコさんが空港ロビーまで出迎えてくれてました。タカコさんも相当待ちくたびれた顔をしていたので、とりあえず理由を説明してひたすら謝りました。
時計はすでに、23時を回っています。
その時間にはすでに電車が終わっていたので、空港からタクシーに乗りノボルさん夫婦が住んでいる家まで連れて行ってもらいました。
 

 バルセロナサンツ駅の近くにあるマンション群。ここにノボルさん夫婦の住んでいる家があります。
部屋に着くと、間もなくノボルさんが仕事から帰ってきたので皆で話をしながら、明日から何処に行こうかと観光の計画を立てました。
  
「ん?」
 
そんな中、部屋にあったテレビから流れていたものは、
今まで俺が目にしたことのない、スペイン語でのニュース番組。
 
 
 
店主、そこで

「あ、俺は今スペインに居るんだ」と実感しました(笑)
 
「何言ってるのか全然意味わかんないけど、とうとう来ちゃったなぁ、スペインに!」 

約十四時間の空の旅に加え、朝起きて広島から関西空港に行くまで、それに空港に着いてからノボルさんの家に着くまでの時間を合計すると、ざっと約二十四時間寝ていないことになります。
飛行機の中で寝たといっても、熟睡できるほどの空間ではないことは皆さんもご存知かと(笑)

 それからしばらく三人で色々な話をしていましたが、さすがに俺も丸一日寝ていないと気を失いそうなくらい眠く、自然とまぶたはどんどんと閉じていきます。
そんな俺を見かねたノボルさん達も気を遣ってくれて、その日は早めに寝かせてもらいました。
 

 翌日の二日目、三日目はバルセロナ観光に連れて行ってもらいました。
サグラダファミリアなどの、ガウディの建築物や市内の散策、「モンセラ」という山やシッチェスの海岸まで。とにかく見るもの全てが新鮮で、刺激的でした。
 
だけど、そこで一番驚かされたのは
初めて見る「教会」や「大聖堂」でもなく、
 
 
シッチェスにいる、びっくりするくらいのゲイの数でした(笑)
ホントに町の至る所にゲイがいて、普通のカップルのように手をつないでいたり腕を組んでいたり、
極めつけにはなんと、浜辺で抱き合ったままキスしているゲイカップルも発見。
もちろん日本では見たことのない光景だったので、俺は正直「目のやり場」に困るワケです。
 
別に、ゲイに対して変な偏見は持っていないのですが、やはり俺は男性より女性の方が好きなので、「理解し辛い」といったところです。
きっとこれも「一つの愛の形」なんでしょうね。
 
「しかしこれって、普通の光景なの!?」
 
ノボルさん夫妻はスペインでの生活を何年もされているようなので、この光景にはすっかり慣れてしまってるのでしょうか。ただ驚くばかりの俺を見て笑っていました。
 
さて。
今回の旅行、「観光もしかり」ですが、やはりメインは「食事」です。
自分の直感を確かめるために、日本からこんなに遠くまで、
 
常に貧乏なのに大金をはたいて来ましたから(笑)
 
その日から片っ端に、バルセロナにあるノボルさん達おススメのレストランやバルに連れて行ってもらいました。
 
とにかく食べて、食べて、食べまくる。
 
俺はメニューにあるスペイン語すらままならないので、とりあえずタカコさんにメニューを一つずつ訳してもらいながら、その店ごとのスペシャル料理を注文してもらいました。
 
ノボルさん達にいろいろと料理の説明をしてもらいながら口に運ぶのですが、
 
全ての料理が、
言葉で表せないくらいに美味かった。
 
そう。
俺は言葉を失っていたのです。
 
 
 
それまでコンビニ弁当とか弁当屋ご飯ばかりの毎日だったから、
そりゃ言葉も失いますわね(笑)
 
なんて言えばいいんですかね。
見た目は一見何の変哲もない料理なのですが、とにかく食材が美味い。
魚にしろ肉にしろ、野菜にまでその素材ごとの「うまみ」を失うことなく、シンプルに調理されているところにとても興味が湧きました。
食材の採れる場所が違うだけで、ここまで違うものなのかと。
しかし、
どちらかと言えば盛り付けなどは、「おおざっぱ」です。
見た目は「はい!作ったものをそのまんまお皿に乗せただけ!!」というような物ばかりですが、料理の味に圧倒されているのでそんなものは二の次でした。
 
とにかく俺は目の前にある料理を、口の周りを汚しながら味わい続けました。
 
 
 
「やっぱり自分が思ってた通りだ! 日本に帰ったらいつホテル辞めよう!?」
 
バルセロナに着いてから、気がついたらこれしか考えていませんでした。

見るもの、聞くもの、触るもの、嗅ぐもの、食べるもの。
五感の全てがとにかく新鮮だったんです。
 
スペインに来る前は多少
 
いや、かなり不安でした。
 
「もし自分が想像していたものと違っていたらどうする? 
違ってたら、これからどうしよう? 今度から何を目標にするの?」

行きの飛行機の中で、ずっとそればかりを考えていました。
 
ホテルの同僚や上司にも
「旅行から帰ってきたら、ホテルを辞めてスペインへ行くつもりです!」
なーんてでかい口叩いてまで来たのに、想像と違っていたらそりゃもう大変です。
が、
 
 
気が付いたら、そんな不安はとっくにどこかに吹き飛んでいました。
 
 
「自分の直感」は、間違っていませんでした。
 
 
 
 
まぁ
あの時一歩でも間違えていたら
相当取り返しのつかないことになってたかなぁと思うと、
今でもちょっとだけゾッとしますね。


ホントに「でかい口」たたきまくってましたから(笑)


★★★つづく★★★
2008/10/30 (Thu)
2.生まれて初めての海外、そして退職
 
当時俺は広島に住んでいたため、関西国際空港からスペインへ向かいました。
高卒なので、「大学生生活」というものを楽しむことができず、「キャンパス」とか「単位」とか「ゼミ」という言葉にものすごく憧れていた店主です(笑)
 
当然それまで海外に旅行なんてしたこともなく、恥ずかしいけれど、これが生まれて初めての海外旅行。パスポートなんて取ったのももちろん初めてで、行ったこともない国へ向かうワケですよ。
当然、チェックインのシステムなんて全然分かりません。
荷物はスーツケースにパンパンだし、しかもその日はどうしようもなく暑く、ただでさえ汗っかきなのに、じっとしているだけでも額から汗がどんどんと流れ出てきます。
それでもなんとか早めに早めにと行動して、なんとか無事にはチェックインできました。
 
関西国際空港からイタリアの「アリタリア航空」という航空会社の飛行機に乗ってローマまで行き、ローマから別の便に乗り換えてバルセロナに着く予定でした。
当時も現在もスペインまでの直行便が日本から出ていないので、乗り継ぎの時間も入れると片道に約15時間かかるとの事。
 
といっても、その「乗り継ぎ」とか「15時間」という言葉にすら実感がわかなくて(笑)
 
さて。飛行機に乗り、チケットに書いてある席番号を辿り、席に着きます。
 
機内アナウンスの英語とイタリア語を聞いているだけで、気分はすでに外国人。
あんまり読まないくせに、新聞とか広げてます。
ちょっとだけ快適です。
 
同僚は今頃ホテルで仕事中ですから(笑)
それと、
スチュワーデスが教える救命胴衣のセット方法を、さりげなーく真似してみたり。
 
当時の店主、弱冠23歳。
明らかに調子に乗っております(笑)
 
そしていよいよ、待ちに待ったジェットコースターにも感じた離陸の瞬間。
「3、2、1、GO!」とか誰も掛け声なんてかけてもないのに、いきなりジェット機が猛スピードで滑走路を突き進む。
 
店主、ますます調子に乗ってきました(笑)
 
そして機体が上向きに傾き、腰が浮いてしまうような変な感覚で、飛行機は雲の上へと上昇して行きました。しばらくして飛行機が雲の間をすり抜けた後、辺り一面青い空には白い雲。
この景色に見とれてしまい、俺は「子供が電車の窓にへばりつく」ようにして外を見るように、くぎづけになってずーっと窓の外を眺めていました。
 
「いやぁ。地球ってでっかいなぁ…」
 
ごく当たり前な、単純なことを思っていました。
でも、初めてのことならきっと他の人でも同じこと考えます
 
よね?(笑)
 
「ばっぱちゃん」の写真を俺の視点と同じ高さに持っていき、俺が今見ている景色を見せてあげる。
 
「これ、見せてあげたかったなぁ。きっと見たことないんだろうなぁ、こんな景色」
 
一面、見渡す限りの真っ青な空の天井と真っ白い雲の絨毯。
きっと見慣れてしまえばどうって事のない景色なのでしょうが、俺にはもちろん生まれて初めて見る景色でしたので、飛行機の中で寝ることができずに、しばらくずっとその景色に見とれていました。
 
説明が遅れましたが「ばっぱちゃん」とは、俺の祖母のことです。
いつからか分かりませんが、小さい頃そうやって呼んでいました。
残念なことに、俺が広島に来て二年目に、ばっぱちゃんは他界してしまいましたが。
高校生の時の正月に会いに行った以来、それがばっぱちゃんに会えた最後になってしまったことが、なによりも残念です。
俺がまだ幼稚園に入る前に親父が離婚してしまい再婚するまでの数年間、わざわざ俺の面倒を見てくれるために、実家の茨城からわざわざ出てきてくれたのです。
ばっぱちゃんは宮城県は石巻の出身で、若い頃に芸者をしていたそうです。ちっちゃい頃よく俺の前でもいろんな歌を唄ってくれていましたが、大人の歌は正直、当時の子供心には全く興味がありませんでした。
 
でも、今になってみると、一曲くらい覚えていれば良かったと後悔しています。
 
あんなにしょっちゅう俺の目の前で唄っていた「いろはの歌」すら、出てこない。
 
今でも当時のことを思い出しますが、
俺って「おばあちゃんっ子」だったなぁと、つくづく思います。
いつもいつも、ばっぱちゃんに甘えてばーっかり。
あの頃「ぼくは、ばっぱちゃんのこどもだよ!」と、本気で思っていたくらいですから(笑)
 
何度も言いますが、とにかく俺は「甘えん坊」でした。
ある日、幼稚園の運動会のお遊戯で、「お母さんと一緒に踊りましょう」というのがありました。俺は当然ばっぱちゃんと踊るのであろうと、今か今かとそのお遊戯を心待ちにしていたワケですよ。
だけどばっぱちゃんは当時すでに七十歳を超えていたため、俺と一緒に踊ることができなかったのでその旨を前もって先生に伝えていたのです。
そんなの、直前まで俺は知りもしません。
もちろん、他の友達皆は、それぞれのお母さんと一緒に踊っています。
 
だけど、俺はばっぱちゃんと踊れない。

皆がお母さんと一緒に踊ってるのに、俺だけばっぱちゃんと踊れないんですよ!?
 
それがすごく残念でたまらなくなり、しまいには大声を上げて泣きながら、幼稚園の先生と嫌々踊ったこと(ただ先生に手を引っ張られているだけだった)を、今でも覚えています。
 
それもそのはず、しっかりとその光景は一枚の写真に収められていたのです。
 
その写真を見なくてもそのときの光景は全て思い出せます。

今でも「あの時一緒に踊りたかった!!」という思いは消えません。
 
ばっぱちゃんが他界した時に広島から実家の横浜へ寄り、俺のアルバムの中から一枚だけ、俺と一緒に写っている写真を引っ張り出して広島に持って帰りました。
 
――これから先は、いつでもどこでもばっぱちゃんの傍に居たい。きっと俺のことをどこかで見てくれているに違いない―― 
 
甘えん坊とどんなに馬鹿にされようが、構いません。
 
そう思ったから、写真を持って帰りました。
 
広島に持って帰ったその写真は、たくさんある写真の中でも俺が唯一気に入ったもので、
ばっぱちゃんが幸せそうに、優しい顔をして笑ってる写真なんです。
今でも、部屋に飾ってあります。
 
「こんな笑顔で、今でもどっかで俺のことを見守ってくれてるのかな?」
 
ばっぱちゃんが生きているうちに、あの笑顔をもう一度見たかった。
 
 


「ねぇ、見てる?この景色、すごいよね!?」
 
ばっぱちゃんはある意味、俺の「母親」です。




もちろん、今でも大好きです。


★★★つづく★★★ 
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