「ぼくのおみせ」ができるまで 忍者ブログ
カレンダー
03 2024/04 05
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30
フリーエリア
最新CM
[12/05 ニョスキ店主]
[12/05 ニョスキ店主]
[11/05 NONAME]
[11/03 乙さん]
[05/25 ニョスキ店主]
最新TB
プロフィール
HN:
ニョスキ店主
性別:
男性
バーコード
ブログ内検索
アクセス解析
カウンター
アクセス解析
エル ニョスキ店主の スペイン バルセロナでの料理修行体験記。 といっても、 料理のお話だけではありません! 時間があるときに少しずつアップさせてもらいます♪ ※当ブログの無断転載はしないでくださいね!! でもまぁ転載するほどの大作でもありませんけど(笑)
[6] [7] [8] [9] [10] [11] [12]
2024/04/25 (Thu)
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

2008/10/23 (Thu)

 
 「さ、いよいよだ!」

スペインへ出発する日の朝、広島駅から新神戸駅に向かう新幹線の中で、
朝ごはん用に買っておいたカツサンドをおもむろにほおばる。
 
この「カツサンド」、申し訳ありませんが今でもかなりこだわってます。
だけど俺は、
「どこそこ産の豚」とか「カツサンドの味」にこだわっているのではなく、
ただ「あのカツサンド」にこだわっているのです。
 
おそらく「トラウマ」的な感覚です。
 
俺は、広島に住んでいた当時、かなりの貧乏生活をしていました。
 
とにかく貧乏でした(笑)
 
どれくらい?
例えば『初めて広島から実家に帰る時、お腹が空いてるのに新幹線の中で約4時間半も何にも食べられず、広島駅で買ったお茶だけしか飲めず、実家に着くまでひたすらタバコだけで空腹を我慢していたくらい』です(笑)
毎月のお給料から家賃や光熱費、他にいろんなものが差し引かれると、最終的には月末に給料が出てもすぐに金欠になるくらいにお金がなかったんです。
そう。
一人暮らしをしていくには、まだまだ充分なお給料ではなかったのです。
というか、単に俺が無計画な性格だっただけなのかもしれませんが。
 
希望だけで始めた一人暮らし。だけど希望以外何も考えずに始めてしまった結果、お金のやりくりに毎月かなり苦労していました。
休みの日の食事が「カップラーメンだけ」なんて、当時はざらでしたよ(笑)
 
そんな中、用があって広島から初めて実家に帰るために新幹線に乗った時。
空腹でそれはもうどうしようもない俺の隣に座っていた、明らかに俺より若い男性がですね
 
カツサンドをおもむろにほおばってるワケですよ。
俺はそれを、横目でおいしそうに見つめながら、
 
「いつか俺も、新幹線でカツサンドくらい食えるようになってやる!!」
ホント負けず嫌いです(笑)
 
しかし、そんなカツサンド(当時確か500円程度)すら買えないような生活とは、すごく自分が情けなく思えました。
だって、「カツサンドすら」ですよ? 
幕の内弁当や釜飯ならともかく、カツサンドすら。
「情けなく思えた」のではなく、ただホントに情けなかった。
 
「どうしても!」と思って始めた一人暮らしなのに。
いざ一人暮らしをしてみたら、楽しい生活はおろか、自分の無力さだけを痛感。
でも、それ以来用事があって新幹線に乗るときには、今でもその時のことを思い出します。 
毎回駅に着いては、お腹が空いていないにもかかわらず売店でカツサンドを買い、電車の中で食べる。
 
お腹が空いていないのに食べるもんだから、そりゃ太るワケです(笑)
 
「ホント、あの頃は貧乏だったなぁ」
いつでもどこでも新幹線に乗る前には必ずカツサンド買ってます。
 
もちろん、今でも(笑)
 
 
 
そんな中、新神戸へ向かう新幹線の中、右手でカツサンドをほおばりながら、「ばっぱちゃん」と一緒に写っている、俺が幼稚園に通っていた頃の写真を左手に持って眺めてました。
 
「まさか、こんなきっかけで海外に行けるなんて。俺はいったい、これから先どうなっちゃうんだろ!?」
 
何が起こるかは全く想像もつきませんでしたが、
期待と不安で、頭の中がいっぱいだったのを覚えています。
当時二十三歳の俺に「今まで見たくても見れなかったこと」が、すぐ目の前にありました。
 
ただの海外旅行なのにね(笑)
 
俺の個人的な意見。
「きれいごと」かもしれませんが、人生においての「チャンス」とは、待っているだけではいつまでたっても手に入りません。どんな時でも自分から進んで掴んで行く事が大事で、もしもあの時に躊躇なんてしていたら、その躊躇している間にきっと他の人にチャンスを獲られてしまっていただろうと、今でも思います。
 

「お、もうすぐ新神戸駅に着く!」
 
 
とにかく、そのチャンスを誰にも取られたくないという一心で、
無我夢中で、やっとのことでここまでこぎつけました。


★★★つづく★★★ 
PR
2008/10/20 (Mon)
ホテルに就職してからも、高校時代の親友の康一と良く遊んでました。
彼は俺の「良き理解者」というだけでなく、高校時代はよく一緒にバカなことをしては、笑ってばかりの毎日を送ってました。
もちろん勉強なんてほとんどせずに(笑)
高校在学中から彼には「俺の夢」を熱く語っていたせいか、ある日一緒に飲んだ席で、彼にこんなことを言われました。
 
「お前、そういえば海外に行きたいとか言ってなかったっけ?
そんなことを前に俺に言ってたよな? これからお前、どうすんの?」 
 
…、はい。確かに言いました。
だけど、当時はまだホテルの仕事に慣れた頃で、しかも俺の周りには海外に行ったことのある人など聞いたことがない。きっとホテルの先輩の中には探せばいるのでしょうが、こんな「若造」の俺が、いきなりそんなことを上司に話せるわけがありません。
 
そういう意味で「未来のビジョン」というものが、まだはっきりとは見えていなかったのです
 
いや、
気が付いたら、そんな夢さえも忘れてました。
 
でも、康一に言われたその言葉が、ずっと俺の頭の中に引っかかったまま何年も経ち、今回ようやくそれらしきチャンスが巡ってきました。

「このチャンスだけは誰にもあげたくないし、取られたくもない!!」
そんな一心でひたすら勉強する毎日でした。
 

 店主、当時はあまりにも必死だったからでしょうか、
 
その年の冬、広島で職場の同僚とスキーに行くときに、前日から出発してスキー場の駐車場で車中で一夜を過ごしたことがあるのですが、
そのスキー場から夜空を見上げると、すごく澄んだ夜空には流れ星が見えるではありませんか。
 
 
さぁ。
店主が皆さんをメルヘンの世界へご招待です(笑)
 
 
その、空に見える流れ星に向かって、俺はまるで子供のように
 
「どうか、俺をスペインに行かせて下さい…!!」
 
と、手を合わせてお願いまでしたこともありましたよ(笑)
 
今考えても恥ずかしい話なのですが、
「流れ星にお願いしたら願い事って叶うものなんだ」ということは、今でも否定しません。
 
「それぐらい必死だった」という事です
 
 
 
いや、ホントにお願いしたんだってば(笑)
 
そして、年も明けて一九九七年 一月のある日。
ジャンボさんが急に嬉しいことを言ってくれました。
「若いときにスペインで一緒に仕事していた日本人の知り合いがいるんだけどね、その知り合いが今年、バルセロナでレストランをオープンさせるっていう話を聞いたから、その人に紹介できるかお願いしてみるよ!」 
ジャンボさんも、俺を鉄板焼きの店に紹介するのではなく、せっかくだから向こうの料理を勉強させてやりたいと思ってくれたみたいです。だけど今までツテらしいツテが鉄板焼きのお店以外になく、あちこちに手を回してくれていたそうです。
 
そのジャンボさんの優しさが、メチャメチャ嬉しかった。
 
するとさらにその数日後、ジャンボさんが、
「例のレストランの人、ケイゴさんって言うんだけど、この話引き受けてくれたからね!」
と言ってくれ、すぐに話を進めてくれていたのです。
 
「え!? 本当ですか!? あ、ありがとうございます!!」
 
とにかく深く、深く頭を下げた。
 
まだはっきりと決まったことではなかったけれど、とにかく嬉しかったのを覚えています。
それからその「ケイゴさん」という方の住所を教えてもらい、まずは早速部屋に帰ってからお礼の手紙を書くことにしました。
 
初めてのエアーメール。
 
「えっと、どうやって書いたらいいのかな? 切手はどこに貼る?」
 
宛先はスペイン語。だけど中身はもちろん日本語。
たかが普通の手紙なのに、なぜかやたらと緊張してました。
 
でも、いきなり右も左も分からない、誰も知らないところへ?
 
 
というワケで数日後、俺から
「ジャンボさん、まだはっきり決まった話ではありませんが、どうしても一度、スペインに行くと決める前に自分の目でスペインを見てみたいんですけど…」
と、スペイン旅行の話を切り出してみた。
 
いきなり、今まで持っていたものを全て捨てていざ海外へ、知らない処へ。
 
「だけど行ってみたら、自分の想像していたものと全く違ってました~w」
 
なんてことになったらそりゃもう大変なことになると思い、同時に職場にもお願いして、
普通なら取らせてくれない有給休暇も取ってバルセロナへ旅行することに決めました。
 
 
「板前さんをしているノボルさんっていう人とその奥さんが向こうに住んでいて、彼らの家に泊まらせてもらえるようにお願いしてあるからさ。心配しないで行ってこいよ!」
と、わざわざバルセロナにいるジャンボさんの知り合いに連絡までしてお願いしてくれました。
知らないところに一人で泊まるよりも、まずは知り合いが居るところへ、ということがなによりも安心でした。
 
ノボルさん夫妻にもお礼の手紙を書いてその数日後、ケイゴさんとノボルさんにお礼の電話を。もちろん国際電話なので、呼び出し中の音も違う。
「日本人が電話に出る」と分かっているにもかかわらず、
呼び出し中の「プーーー、プーーー」という音にでさえ緊張していたのを覚えています。
 
今まで聞いてた「プルルルルル」じゃないんだから(笑)
 


「初めまして、寺門です。どうぞ宜しくお願いします!」
 
ノボルさん夫妻にはその後、俺が旅行する何ヶ月か前に日本へバケーションで帰ってきていて一度広島で顔を合わせて挨拶を済ませることができたので、多少は気が楽になりました。
知らない人の家に泊まるのも、なんだか心苦しいですからね(笑)
 
そして、一九九七年 六月。
 
俺は、生まれて初めての海外旅行に。
 
「これからきっと、自分の周りでいろんな事が起こるであろう国」
たくさんの期待を胸に、いざスペインへ向いました。
 
 
 
 









ていうかどうせスペイン行ったって右も左もスペイン語もなーんも分かんないくせに、
当時、考えてることだけはかっこつけてイッチョ前でした(笑)



★★★つづく★★★
2008/10/17 (Fri)
広島市内の小さな雑居ビルの二階にある、こじんまりとしたスペイン料理店
「ラ カンペシーナ」。
とても狭く、とても急な階段を上って二階の扉を開くと、目の前に小さな4名掛けのカウンターがあり、正面から見て左側と奥には、これまた小さなテーブル席が二つ。
お店に着くと、大きな体をしたオーナー通称「ジャンボ」さんと、アルバイトのお姉さんが、うちらを出迎えてくれました。前もって、綾乃ちゃんが俺の話をジャンボさんにしていたらしいのですが、だからといっていきなり本題を話すのはちょっとおかしな話で。

「とりあえず、食事しよっか?」ということになって、二人で静かに席に着きました。
 
それまでのホテルでの仕事はフレンチやイタリアンが主で、その日までスペイン料理なんて食べたこともなく、考えたこともほとんどなく、これからどんな料理が出てくるのかなんて全く想像がつきませんでした。

だって、当時知っていたスペイン料理は、
「パエリヤ」と「ガスパッチョ」という単語だけ(笑)
そんな「中途半端な見習いコック」が、ですよ。
今まで何日も同じ事を考えて答えが出なかったのにもかかわらず、
最初に出てきた料理を一口食べてみたら、
 
あっさりと答えが出たんです。
 
「ちょっと、俺が探してたものって、コレだよ、コレ!!」
そんな言葉、もちろん口が割けたって年上の人の前では言えません。
一人心の中で、「うぉー!!」って叫んでました(笑)
 
次の瞬間、すぐに俺の口がジャンボさんに言ってました。
 

「良かったら、僕にスペイン料理を教えてもらえませんか?」
 

まさか、俺の口からこんな言葉が出るとは思いもしませんでした。
ある意味、単純ですよね(笑)
 
すると、ジャンボさんもすごく気さくな人で、
「いつでもおいで! もし君がその気なら、向こう(バルセロナ)にツテがあるから紹介してあげるよ?」
と言ってくれたんです。

その時、
「ガーリックライスを…」ということは、すでに頭から消えてました。
 
余談ですが、この日の俺が衝撃的に出会った料理は、
『タコのアリオリソース和え』というものでした。
ボイルしただけなのに、あのタコの柔らかさがまず衝撃的。
ただひたすら、「どーしてこんなに柔らかいの!?」
それとそのタコに和えてある、ニンニクと卵黄をオリーブオイルで乳化させて作る「アリオリソース」。 
そうです。
店主、ダブルでやられたワケです(笑)
 
コックとして働いてる人が、
「この料理を自分で作れるようになりたい!」と思う瞬間。
 
俺とスペイン料理の出会いは、こんな感じでした。
 
 
俺は、翌日になると早速本屋へ走り、スペインに関する本やスペイン語講座のテキスト、料理の本や辞書まで、ありとあらゆるものを買いあさってました。
 
見よ、この単純っぷり(笑)
 
だけど、あの日の俺は何かに取り憑かれたかのように無我夢中だったのを覚えています
 
 
いや、やっぱりただ単純なだけですね(笑)
 
そして数日後から、ホテルの仕事が終わるとジャンボさんの店へ顔を出すようになり、そこがレストランなのにも関わらず自分で買った本を全部持って行き、店のカウンターでスペイン語の勉強をおもむろに始めました。
ひょっとしたら、今考えると結構お荷物だったかな(汗)
 
しかし「勉強する」といっても、自他共に認める「大の勉強嫌い」の俺です。何をどうやって勉強していいのか全く分からなかったので、まずはその買ってきたテキストをノートに丸写しすることから始めました ――アルファベット、数字、単語を書いて、読んで覚えたり、文法の勉強でテキストの例文を丸写ししたり、発音知らないのに音読してみたり―― 

分からないけど、とにかくなんでもいいからと、分からないなりに始めてみました。
 
だって、
他に「コレ!」といった趣味もなかったもので、時間だけはしっかりありましたから(汗)
 

ホテルの仕事が早番で夕方に終わる日や、休みの日もアルバイトが終わってからは、真っ先にジャンボさんの店に向かって勉強する。ジャンボさんのお店から部屋に帰ってからも、テキスト開いては夜遅くまでテキストとにらめっこ。
気が付いたら、そんな日が半年以上も続いてました。とにかく、毎日クタクタになっていたのを思い出します。
実は俺、今まで何かを始めても大抵「中途半端」とか「三日坊主」で終わっていたりする性格でした。

だけど、今回ばかりは「今までと違う自分」がそこにいるのが分かりました。
 
「おいおい。俺、半年以上も同じ事をやり続けてるよ。大丈夫か!?」
 なんて、自分で自分を疑ってたくらいですからね(笑)
 
 

  「さてと。今日はこれから新しい単語を覚えてみよっかな?」
 

 いつからか、部屋のテーブル上は
「冷奴にビール」の組み合わせではなくなり、

「コンビニ弁当とスペイン語のテキスト」の組み合わせに変わっていました。

 
あの頃、
無我夢中な割には先がまだ何も見えていませんでしたが、
当時他に覚えがないくらいの「手ごたえ」と「充実感」を、はっきりと感じていました。
 
 

★★★つづく★★★
2008/10/16 (Thu)
「はぁ? スペイン!?」
 
綾乃ちゃんからのものすごい唐突な誘いには、正直戸惑いました。
 
別に、口説かれてるワケでもないのに(笑)
 
しかも話をよく聞いてみると、その「仕事」とは
「バルセロナにある、日本料理店内の鉄板焼きの店で」
ということでした。
日本で俗に言う、「ステーキハウス」ですよね。テレビでよく見る、コックさんが客の目の前でガーリックライスを“チャカチャカ”とやっている「パフォーマンス」を真っ先に想像しました。

「でもさ、なんでスペインに行ってまで日本料理とかステーキよ。だって、今までやってきたことと全く違うジャンルの料理だよ!?」

と、誰もがそう考えるかもしれません。ステーキやガーリックライスを批判しているワケではありませんが、俺も同じ事を考えました。だって、明らかに仕事の内容が違うんですもの。 

批判以前に 「畑違い」 でしたから。
 
でも、
「鉄板の上で、ガーリックライスをチャカチャカ?」
ということは、少なからず頭から離れませんでしたね(笑)

だって、ホテルに就職した理由は単純明快。
「ホテルにあるフレンチレストランのかっこいいコックさんになりたいっ!!」
そう思って入社したのに。
 
「まさかスペインに。しかも『鉄板焼き』? いくら刺激が欲しいといったって、そんな急激な環境の変化に順応なんてできるのかな?」   

そう思ったので、もちろん最初は丁重にお断りしました。
だけど、丁重に断ったにもかかわらず、
なぜかその事がずーっと気になっていたある日、ふと俺の頭の中に何かがよぎりました。
 
「いや待てよ。ひょっとしたら、これがチャンスってやつ?」 
 
はっきりとした答えはすぐに出ませんでしたが、
ホント、それから毎日のように綾乃ちゃんがしきりに
「市内にスペイン料理の店があってさ、そこのオーナーがバルセロナの日本料理店のオーナーと知り合いでね。まずはそのスペイン料理屋の人を紹介してあげるから、今度食べに行こうよ!」と
「俺、実は口説かれてるの?」ってくらい(笑)に言うので、とりあえず綾乃ちゃんとそのお店に食べに行くことにしました
 
が、
正直言って俺、全く乗り気ではなかったんです。


★★★つづく★★★
2008/10/12 (Sun)
1.    本当に些細なきっかけ
 
「寺ちゃん、スペインに働きに行かない?」
 
一九九六年、春、広島。チャンスはすごく唐突にやってきました。
当時働いていた某ホテルの同じ職場でホールのアルバイトをしていた綾乃ちゃんに、そうやって話を持ちかけられました。
綾乃ちゃんは1992年、バルセロナでオリンピックがあった年に、現地の日本料理店へ日本選手団のお弁当作りの手伝いに行ったことがあり、そのお店が「日本人調理師を探している」という話を当時から聞いていたそうです。
 
それまでの俺は、地元の県立高校を卒業してからすぐに地元にあるホテルに就職。「洋食調理師見習い」からスタートで宴会調理部に配属され、三年目から広島へ出向させてもらいました。
こんなことを言うと、若僧の戯言にしか聞こえませんが、
「俺って一体、この先何がやりたいんだろう?」
いつからかそう思い始めていたのです。先輩の方々ごめんなさい(笑)
 
というワケで、「本当に自分は何をしたいのか?」を探すために、とりあえず今働いているところからどこか違う所へ行って働いてみたくなり、以前からホテルの調理部長に出向願いを出していました。するとちょうどその年の秋に広島で「アジア大会」が開催されるため、当事広島ではホテルの建設ラッシュで同じ系列のホテルもできるということで、丁度タイミング良く広島行きの話が俺にかかったのです。
 
それとは別に、
前々から「実家を出て一人暮らしをしてみたい」という思いがすごく強かったんです。
 
「高校を卒業したら大阪の調理師学校に行って、知らない街で生活してみたい!」
と親父に相談したこともありましたが、即答で反対され断念せざるを得ませんでした(笑)  そのため、「一人暮らし」というものにすごく憧れがありましたが、就職してからも相変わらず一人暮らしすらさせてもらえず、「何が何でも一人暮らし!!」と、今回は反対されないように親父に軽く嘘をついてみました。
 
「会社から広島に行ってこいって言われたんだよ。三ヶ月ね」
 
親父は、俺がそのホテルに就職が決まったことをかなり喜んでいました。
「できればこのホテルで出世をして、いつかは料理長にでもなって安泰するだろう」
 
と思っていたそうですが、そうは問屋が卸しません(笑)
 
そのホテルに命じられて行くのであれば、今回ばかりは親父も反対できないだろうと予想していました。我ながら、今回は上手い嘘をついたなぁと少し感心したりして。
普段からあまり嘘がつけない性格で、ついてもすぐにバレたりするので、いざ「嘘をつこう!」と思うと結構四苦八苦するんです(笑)
そしてこの「嘘つき大作戦」は見事に成功、予想通り親父は賛成せざるを得なくなり、
一九九四年八月、俺は広島へ行き、晴れて親元を離れての「念願の一人暮らし」という生活をすることになったのです。
 
広島に行った当初はまだ「横浜からの出向社員」扱いだったので、ホテルの客室を寮代わりにして生活していました。
ですが、知らない土地で刺激のある毎日を送り、たくさんの人たちとの出会いもあり、なおかつ仕事も面白い。
「それならいっそこのままこっちに残らせてもらおう!」と、広島に行ってから3年目に入る前には移籍という形で広島の地に残りました。
移籍した理由の一つに「彼女ができたから」という理由ももちろんありました(笑)が、それよりもやはり、「今までとは全く違った生活をしていた」という事が余計新鮮に感じたのでしょう。
そして、移籍が決まってから、ホテルからバイクで5分のところに部屋を借りて念願の「一人暮らし」が始まりました。
 
が、ある休みの日の夕方。
部屋でテレビニュースを見ながら夕食を取っていたときにふと思ったんです。
――親元を離れ、念願の一人暮らしを始めた。これからは新しく、ささやかだけど自由で楽しい生活が始まろうとしていた―― 
にもかかわらず、
「違う! 俺が探し求めていた生活は、これじゃない!!」
 
求めていたようで、自分はこういう生活を本当に求めてはいなかったことに気がついたのです。
店主、そういう意味で「何にも考えずに突っ走る」性格は、昔も今も変わってません(笑)
 
 
調理師学校には行かず、高卒でそのままホテルに就職したので、独学で調理師免許は取りました。とにかくいろんな事にチャレンジして毎日刺激のある生活がしたかったんです。しかも、その頃あまり飲めなかったにも関わらず、夕方から一人で冷奴つまんでビールなんか飲んでちょっと背伸びもしてみましたが、このいたって平凡な「晩酌」が、余計に平凡な生活からの脱出心を駆り立てたのかな? と、今でも思います。
 
当時22歳ですもの。そりゃどう見たって背伸びにしか見えませんよね(笑)
 
中学生から高校生になっても、ホテルに就職してからもアルバイトに精を出してました。新聞配達から始まって、それ以外は今までずっと飲食関係 ――酒屋の配達、八百屋のレジ打ち、そば屋のホールや出前、精肉店、いろんなレストランでの接客や調理など―― 

 とにかく、いろんな経験をしてみたくてなんでもやりました。高校に入ってからラグビー部に入ったけど、どうしても料理がやりたくて途中で退部させてもらって、地元にあったスパゲティレストランでアルバイトを始めました。とにかく料理に興味を持っていて、どれくらい料理が好きだったかというと、時代をさかのぼれば小学校五年生のときのクラブ活動で、女子に紛れて料理クラブに入っていたのを思い出します。

 当時両親は共働きだったため、家に一人でいるときは冷蔵庫にあるものを勝手に引っ張り出して、包丁をいじってみては指を切ってみたり、今どう考えてもおかしなものを作ってみて、「お、なかなかいけるじゃん!!」とか思ったりして、弟や近所の友達を呼んでは試食してもらっていました。さすがに「ウィンナーのてんぷら」を作って、ウィンナーが高熱の油の中で破裂したときは、恐怖すら覚えましたが(笑)
あの時はホントに「あわや大惨事」でしたけど、
「怖いから、痛いから」という理由で料理をやめようとは一度も思いませんでした。
 
「食べ物を作る」という事が、ただ純粋に楽しかったんです。


★★★つづく★★★
prevnext
忍者ブログ[PR]